Готовый перевод Shuumatsu Nani Shitemasu ka? Mou Ichido dake, Aemasu ka? / sukamoka volume 4: Том 4 (Иллюстрации+том на японском)

1

2

3

4

5

彼女が強いというのは、最初から分かっていたことだ。

もちろん、訓練の時には、それなりに良い勝負ができていた。しかしそれに

も、分かりやすくて明快な理由がふたつあった。ひとつは、互いの力を高めあう

訓練の場において、敵を消し炭にするようなタィプの強さは発揮のしようがない

とい、っこと。も/っひとつは、この子自身の性格の問題。ラキシュ•ニクス•セニ

オリスは、その身に宿した才能にまったく似合わない、穏やかで友達想いで平和

的で臆病な性格をしていたということ。

だから、もちろん◦そのふたつの枷を取り払ったラキシュは、ふだんの彼女と

は比べ物にならないほど——そしてこのティアット•シバ•ィグナレオなどとは

比べる気にもなれないほどに、強大な兵器となる。

一合、二合。

刃を交えるたびに、どうしようもなく強く圧し込まれる。

抗しきれない。熾きている魔力の圧が違う。剣の腕やら体格やら体重やら、そ

ういった小賢しい要素をすべて無視するに足るだけの、圧倒的にして根本的な、

強さの差。

「ラ……」

ラキシュ、どうして。そう問いかけたかった。けれど、吸う息と吐く息のどこ

にも、言葉をさしはさむ余裕がなかった◦唇を開き、嚙み合わせた歯をほどくこ

とができなかった。全身と全霊を目の前の「敵」に注ぎ込み続けていないと、立

ち続けていることすら叶いそうになかつた。

いや、それどころか。

そうしていてすら、限界はすぐに訪れた◦無造作にセニオリスが一振りされ

る◦避けきれず、かろうじてィグナレオを軌道上に割り込ませ直撃を避ける-

ナしせん 'iくはつ た はじ

が、剣閃に込められた爆発じみた力には耐えきれない。まるで棒に弾かれた小石

のように、文字通りの意味で吹き飛ばされる。

——ああ……、

目まぐるしく流れていく景色。

ほうだん

ティアットは砲弾のように空を飛びながら、いろいろなことを想う。

大事な家族と敵対する悲しさとか。どういう形であれ元気でいてくれたことに

対する喜びとか。なんでフエオドール側についてるんだという憤りとか。そんな

面倒なことになっているだろう彼女の目の前で、無力にも吹っ飛んでいることし

かできない情けなさとか。

かたすみ

そんなごちやごちやした無数の心の欠片を片隅に押しのけて、この勢いで木立

、つぎよ

なみだ

にぶつかるのは危ないからちやんと防御しなきやと冷静に判断◦目尻の涙を振り

ごういん

切つて、空中で強引に体勢を立て直そうとしたその時に、

ぼふん_

だれ

やわらかくも力強い何かに……誰かの腕に、しっかりと受け止められた。

「-え?一

当惑し、思考が凍る。

『よく、がんばったね』

ささや

ティアットのとてもよく知る声が、優しくそぅ曝いた。

X./X.?

あこが

とても懐かしい声。かつて大好きだった声。憧れとともに、見上げるようにし

て聞いていた声。そして、二度と聞くことができないはずの、失われた声。

顔を上げて、その誰かの顔を確かめたいと思った◦けれど、ここまでの戦闘で

無理な酷使を続けたティアットの体は、もう心の言うことを聞いてくれなかっ

た。悠然と目の前に迫るラキシュの姿をまっすぐに見据えたまま、それ以上動こ

うとしなかつた。

「もしかして、せん、ぱ……一

どうして黄金妖精の目玉は、真後ろを見られるようにできていないんだろう。

錡びついたようになった首を限界まで巡らせ、瞳を斜め上へとねじりこんで。そ

れでも、その誰かの姿は、髪の毛の一筋すら見えてこない。

『うん』

優しい肯定だけが、耳元に聞こえる。

「でも、どうして......」

『放っとけなくて、戻ってきちゃった。ほら、わたしだけじゃなくて』

細い指が、テイアットの背後から、まっすぐ前を指し示す。その指の示す先

に、また別の人影がひとつ。ラキシュとテイアットの間に割り込むょうにして、

現れる。

『ょう、テイアットにラキシュ。久しぶりだな』

背の高い、男性のシルエット。そして、横顔。

とても……いや、そこそこ懐かしいし、それなりに好きだったし、それなりに

頼もしかったし、けれどやっぱり二度と見ることがないはずの、誰かさんの顔。

『ったく、二人とも、しばらく見ねぇ間にによきによき伸びやがって◦成長期っ

てやつは怖えよな、まったく』

緊張感のない声。

腕を組み、ぅんぅんと頷きながら、その男はラキシュに向き直る。

「な、何なの、貴方たちはР:」

そのラキシュは、当然この突然の闖入者に驚いて、戸惑いの声を上げている。

が、男は構わずに、すたすたと気負わない足取りで少女に迫る。

危ない、とティアットは思った。

今のラキシュは、この二人がよく知っていたころの、素直で純朴な少女ではな

いのだ。

悪い男にひっかかって、性格が変わってしまったのだ。触れるものみな切り捨

てるょうな、危険な反抗期の真っ最中なのだ。加ぇて、超すごくて超ャバい超

遺跡兵装セニォリスの使い手なのだ。そのことを、ここにいるはずのない、いや

それどころか五年も前からどこにもいないはずだったこの二人は、知らないの

だ。

そして、案の定。どうにかこうにか混乱から立ち直ったらしいラキシュは、目

前に迫る男に向け、まったく手加減の感じられない勢いでセニォリスを振るい、

「——ぇ」

豪快な風の音をたてて、空だけを切り裂いた。

гへ」

自らの状況も忘れ、ティアットもまた、間の抜けた声を漏らす。

必殺の一撃だ、と思った。どこをどうやっても避けられるはずのない間合いだ

と思った◦少なくとも自分なら、首がすぽ一んと刎ねられて空を飛ぶまで、何を

されたのかも気づけないだろうと思った。なのに。

『はっはっは、普通に元気そうでいろいろ安心したぞ』

どこをどうやって今の一撃をかわしたというのか、男はいつの間にか、ラキ

シユの背後に立っている。

『迷いのない、良い剣だ。その剣筋でセニォリスを振るえば、確かに、打ち崩せ

ない障害など世界にほとんどないだろう……だが、それでも!』

気取つた仕草でにやりと笑い、びしりとラキシュを指さして、

『父なるものの愛とか、そういうやつだけは砕けないのだ!』

何言ってんだこいつ。

予想外に過ぎる目前の展開に、ティアットの頭の中が真っ白になる。

『さあこいラキシュ!いろいろあってズタボロ状態っぽいこの体だが、反抗期

の本音のひとつやふたつ、物理的に受け止めきってみせてやる!』

「だから何なの貴方たちР:」

再び戸惑いの——どこか涙の混じったような声をあげるラキシュ。男は構わず

跳躍すると、抱擁でもしようかというように、大きく両手を広げる。

『食らえ、人間族秘伝、絶対粉砕おと一さんパンチ!』

何それどういうネ^ミングなの何を粉碎する気なの。

「ちよつとちよつとちよつと、どうなつてるのその関節Р:」

うわ、全身ぐねぐねしてる。生き物として許されていいのかわからないレベル

で。

『ふわははは、逃がさんぞマィ娘!とう!』

うわ、飛んだ。

「きゃあああ気持ち悪い気持ち悪いぐねぐねしてる気持ち悪いР:」

うん、気持ち悪い。生理的に受け付けない。

『絆は常識と物理法則を雑に超える!さあ、愛に包まれ心を開けええ!』

ほんとさつきから何言つてるのかなこのひとは。

「絆ってそういうものじゃないからあ! 常識も大事にしないとダメだか

らあ*^•一

あ、なんだか悲鳴が昔のラキシュっぽい。

ひどいものである。

何だこれ。いやもう、本当に、何だこれ。目の前で起きていることのすベて

が、確かに目には見えているはずなのに、何ひとつとして理解できない。

そんな状況の中、ティアットは、頭を真っ白にして、ただただぽかんと口を開

けていることしかできなかつた-

というところで、目が覚めた。

ベッドの上にむくりと身を起こして。

寝ぐせのついた髪の毛をくしゃりとやって、カーテンの隙間から洩れる朝日に

目をやって、はれぼったい目を軽くこすり、ふわあああと特大のあくびをかまし

て。

なが

たつぶりと長い時間をかけ、ぼぅつと朝日を眺めた後に、

「何なのその夢ええつ!?:」

ティアットは小声で叫ぶ(同室のみんなへの配慮だ)と、全力で頭を抱えた。

1•その日の第五師団

かつてあの地上は、肥沃な大地であったのだといぅ。

しかし、当時そこで大きく栄えていた人間種が、〈十七種の獣〉なるものを生

み出し解き放った。それらは様々な姿をとった破滅の化身であり、瞬く間に

人間種と、その大地に住む多くの者たちを滅ぼした。

生き残った者たちは、長い逃亡の日々の後、大賢者なる者に導かれて空の上へ

と至った。〈十七種の獣〉はいずれも翼を持たず、地上を離れた者を直接襲ぅこ

とができなかったからだ。

それから、五百年を超える時間が流れた。

薄水を踏むょぅな平和が、その五百年を覆っていた。幾度も襲い掛かってきた

破滅の危機を、かろぅじて退け続けることができていた。

そんな、積み重ねられ続けてきた奇蹟の上に、今日の浮遊大陸群はある。

戦いの日が近づいてくる。

護翼軍第五師団では、ここ数日で、大量に仕事が増えた。

かつて愛すべき隣人であった39番浮遊島は——その地に巣食った巨大な害悪で

ある〈重く留まる十一番目の獣〉は、今も少しずつ、こちらに近づきつつある。

護翼軍は、これに抗する手段を、速やかに見つけなければならない状況にある。

そもそも〈獣〉は不死であり、通常の兵器で仕留めることはできないとされて

いる。

これまで護翼軍が〈獣〉と戦う際には、膨大な通常兵器で敵の動きを止め、浮

遊島から突き落とすという手段を主に使ってきた。「翼を持たない」ゆえに「独

力で浮遊大陸群まで迪り着けない」というのが〈獣〉すべてに共通する(知られ

ている中では)唯一の弱点である◦だから、不死の存在を殺すような無理にこだ

わる必要はない。空から追い払うことこそが最善であり、ほぼ唯一に近い策だっ

た。しかし、39番浮遊島をまるごと包み込むような形で大空に在るあの<十一番

目の獣〉には、もはやその手が通用しない。

あれを墜とすためには、包み込まれている浮遊島のほうを粉々に破壊しなけれ

ばならないだろう。しかし、39番浮遊島はかなりの大きさのある島だ。しかも、

その表面に広がった〈重く留まる十一番目の獣〉が、まるで鎧のようになって岩

肌を守っている。並の兵器、並の戦術では、地表をわずかに削ることすら難しい

だろう。並外れて強力な兵器、あるいはこれまでの常識を覆すような戦術がなけ

れば、手も足も出せない。

巨大戦略艇『ウルティーカ』が墜とされたことは痛手だった。『ウルティー

力』に積まれていた山投げ機は、現代の浮遊大陸群で望みうる限り、最強にし

て最重の質量兵器だった◦あれならば、 <十一番目の獣〉の守りの上から39番浮

遊島を破砕できたかもしれない。仮にそこまでの戦果が得られなかったとして

も、どの程度まで攻撃が通用したかのデータは、次の攻撃作戦の際には、最高の

足がかりとなってくれたはずだったのだ。少なくとも護翼軍のとてもえらい人々

の頭の中では、そういう計算が成立していたはずなのだ。

しかしあの戦略艇は、もうここにはない。39番浮遊島とは関係のないところ

で、〈十一番目の獣〉に吞まれて地上に消えた。もちろん、あの艇は半ば以上が

技術屋の酔狂の産物だったため、製造コストは他の艇の比ではなかった——よっ

て、簡単に代わりを用意することはできない。

最近の護翼軍基地は、以前にも増して騒がしい。

迫りくる戦いのときに向けて、準備は着々と進められている。

港湾区画にはひっきりなしに補給艇が発着し、物資が次々に運び込まれる◦閉

鎖していた民間の工廠が次々買い取られ、新兵器建造の場へと作り替えられてい

そして、誰も彼もが、それぞれに大量の備品や装備や指示書を抱えて、右へ左

へと忙しなく走り回っている。そこには、種族の差はおろか、位官と兵士の差す

らない。

目前に迫る戦いと、それに対する危機意識を共有して、共に備えよぅとする

人々。

それはある意味において、とても公平で平等な光景だった。

fT

重い木箱の運搬を一通り終えて、少しだけ、休憩の時間をもらえることになっ

た。

全身がほどよく熱を持っている。ほんの少しだけ魔力で賦活はしたものの、そ

れでも力仕事には筋肉を使ぅことに変わりないのだ。二の腕や太ももが張ってい

る。明日あたり、軽い筋肉痛に悩まされることになるかもしれない。

食堂でよく冷えた水をもらって、ティアット•シバ•ィグナレオは木陰に入

る。

涼しげな葉音を聞きながら器を傾け、喉の奥のいがらっぽいものを洗い流し

た。

「ふぅ」

一息をついて、落ち着いて……

その次の瞬間に、突然、その顔が真っ赤に茹で上がった。

「ぅ、ああああ」

今朝の夢のことを、思い出してしまったのだ。

恥ずかしい夢だった。

性格の豹変したラキシュと剣を交えた、これは実際にあったことだ。大きすぎ

る実力差のせいで、まるで相手をできずに叩きのめされた、これも事実だ。ここ

まではいいのだ、内容の情けなさはともかく、その夢を見たこと自体は、責めら

れるよぅなことではない。

問題は、その後。

懐かしい声の誰かに支えられたり、助けられたり、何だかよくわからない助勢

をもらったりしたのは、完全な自分の妄想だ◦あまりに受け入れがたい現実の記

憶を前に、「こ、っいぅ展開だったらよかったのにな」と頭の中で勝手に付け加え

てしまった、欲望むき出しの夢物語だ◦それも、多分に子供じみた脚色の入っ

た。

ヴィレム•クメシュが……自分たち全員にとっての「お父さん」である彼が、

何やらトンチキなキャラ付けをされて出てきた。これは、たぶん、幼少時の自分

の目には彼がそんな風に見えていたのだということだろう。現実に存在していた

彼は、あそこまでおかしくも支離滅裂でもなかったはずだ。たぶん。

「、っ、っ......」

つまり自分は、この期に及んでまだ甘えん坊のまま、成長できていないのだ。

一人前の兵士のつもりで立ち上がって走り出して、フエォドールの前に立ちふ

さがってラキシュと剣を交えて、もののみごとに敗北して。そこまでで終わって

いるならまだしも、その敗戦の夢の中で、保護者に助けてもらうというのは、い

かがなものか◦自覚なくただ守られていた子供のころから、性根が何も変わって

いないではないか。

自分は結局、その程度なのだ。格好の良い大人たちに憧れ、いつかはああなり

たいと願って、わいわいやりながら頑張って、立派になったなどとアィセア先輩

からまさかの評価をもらつたりもしたけれど、それでも◦心の奥底では、自分に

できないことを全て、偉大なる先達に任せてしまいたいなどと思つているのだ。

そう、それこそ、夢にみてしまうくらいに。

「うううあ-—」

頭を抱え、右へ左へと身をひねる。

「どうした。今日の君はまた、一段と奇矯な振る舞いが目立つな」

よく知る声を聞いた。

は、と我に返り、慌てて姿勢を正す。

今は、思い出し悶えなんぞに興じていられる時ではない。やるべきことはいく

らでもあつて、考えなければいけないこともそれなりにある。時間が有限である

以上、いつまでも過去のことに浸つてなどいられない。見据えなければいけない

のは目の前にある現在であり、これから迎えることになる未来なのだから。とい

うもろもろを思い出す。

淡い紫色の髪をした、同年代の少女が——呆れ顔のパニバル•ノク•ヵテナ

が、目の前に立っている。

「フエオド^ルのことでも考えていたか?」

「ち、」少し考える「違う、し」

嘘じやないし◦考えていたのは、間違いなく、あいつのことじやないし。

事実、あの夢の中に、フエオドール自身は出てこなかった。自分とラキシュの

対立の原因のひとつ、重要な関係者ではあったけれど、姿は見せなかった。

「ならば、少し手伝ってくれないか。今日は妙に伝令を頼まれる日のようでな、

あちこちに書類を届けなければいけなくなった。とてもじやないが手と足が足り

言って、パニバルは肩掛けの鞠を揺すってみせる。

「......わたし、さつきひとしごと終わつて、休憩するとこなんだけど」

「だろうな。けれどきつと、体を動かしていたほうが、妙なことを考えずに済む

ぞ」

ぐ。答えに詰まる。さすが長い付き合いなだけあって、この娘には、いろいろ

と読み切られてしまつている。

……自分の性格が把握しやすいだけだ、という可能性については考えないでお

「ほら、これとこれだ。総団長のところまで、最速お急ぎ便でょろしく」

「も一。ちやつ力りしてるんた力ら一

どさり、厚めのファィルの束を受け取る。

「総団長の一位武官さん、いま、ちよっと会いたくないんだけどね」

гん、何かあったのか◦闇討ちを仕掛けて失敗して、『次に会ぅ時こそは必ず打

ち倒してみせる』と宣言したとかか」

「そんなわけないでしよ、パニバルじやあるまいし」

「いや、私もやらないぞそんな非常識なことは」

ならなんで言い出した。と指摘してやりたい気持ちはぐっと飲み込んで、

「ほら、フエォドールを逃がしちやった、あの時にさ。すぐに追いかけさせ

ろ一、って何度か迫ったんだけど、もちろんダメって言われてさ。それから

ちよつと気まずくて」

嘘はついていないが、あまり正確な表現でもない。

少々ながら時間が経ち、頭の冷えた今だからこそ、わかる◦あの数日に自分が

やらかしていたあれは「何度か迫った」などという言葉で表現しきれるほど、生

易しいものではなかった◦しばらく頭を冷やせと言って懲罰房に叩き込まれて

も、文句は言えなかった。

「総団長は心の広い男だ、気にしていないさ◦君も気にしなければ、それまでだ

ろう」

「そうかもしれないけど一」

それでも気になるからこそ、困っているのだ。

迷惑をかけたと思う◦申し訳ないとも思う◦それらに追加して、自分がどれだ

けフエォドールという個人に執着しているのかを全力でぶつけてしまった、この

事実への恥ずかしさがある。

「なに、彼に顔を合わせづらいのは私も一緒だ◦しかも私の恥は、君のょりも新

しぃ」

г……何やったの」

「ささレなことだょ^なくとも闇討ちの類ではなレ」

そぅ言って、パニバルは涼しい顔で肩をすくめた。

「挑む時には正面から。それが私のモットーのひとつだ」

ほんと何やったんだこの子。

»т

でっかい鋼鉄の塊が、ぶっとい鉄の軌条の上を、ごろごろがらがらぎぎぎぎ

ぎゃ一と派手な騷音をまき散らしながら、鋼鉄の上を走っている。

特大の装甲車輛に、超特大の砲を載せた。そのまま撃ったら反動でひっくり返

るので、特注の駐鋤を幾つも搭載した。そしたら今度は重量過多でまともな道を

移動できなくなったので、専用の鉄製軌条の上だけを走る形に仕立て上げた。そ

うして出来上がったのが、これだ。

名を、猛猪級軌上砲撃車輛『ィンゲンス•マレオ』。規格外の射程と破壊力を

持ち、地上からの砲撃で大型の飛空艇をすら墜としてのける、浮遊大陸群屈指の

役立たず兵器である。

……そう◦大型の飛空艇をすら墜とせるというのは確かなのだが、言い換えれ

ば、それ以外の用途がほとんどないのだ。そして、軌条の敷かれた場所でしか運

用できないということは、自軍の工兵が十全の仕事をできる場所でしか仕事をし

ないということ。つまりこれは、「原則として戦略飛空艇を相手どった都市防衛

戦でのみ活躍できる決戦兵器」なのである◦そんな機会、現実にそうそうあるは

ずもない。というか、そうそうあつてもらつては困る。

「そんなもんまで引っ張り出さないといけない戦況なんだなぁ……」

士官用の軍服に身を包んだ被甲種が一人、額の汗を拭いながら、しみじみとぼ

やく。

「いま、何かР:」

そのすぐ隣、同じく士官用軍服に身を包んだ兎徴種の憲兵——砲撃車輛の走行

音に耐えかねてか、細長い耳介をぺたりと倒している——が声を張り上げた。

「いやあ、フエォドール四位武官は有能だったなってね!愚痴っただけ!」

一位武官もまた、大声で答える。

「いなくなって初めて分かるありがたみ!あいつ一人が消えるだけでここまで

ノルマの割り当てが増えるなんて聞いてなかったってえの!おれもう泣きたい

よ!」

「吞気なことを言っている場合ではないだろう!」

憲兵は、頭痛を堪えるように額を押さえる。

「その有能なフエォドール元四位武官が何をしでかしたのか、まさか忘れたわけ

ではないだろうな!?:」

「いや、そう言われてもね!おれが嗅ぎつけられたのは、あいつがやろうとし

てたことの、本当にごく一部だけだしね!ほかにあいつが何やってたのか、き

みたち教えてくれないしね!」

「意地悪をしているわけではない!我々も、現在に至ってなお、彼の計画の全

容を把握しきれていないのだ!」

鋼のこすれ合う耳障りなブレーキ音をたてて、砲撃車輛が停車した。

引き続き、幾本もの駐鋤が展開し、車体を大地に固定する。

騷音が去り、それなりに落ち着けたのだろう◦耳介を軽くさすりながら、憲兵

が声を落として、眩くように言う。

「彼の私室を、床板まで引っベがして調べた。ふだんの行動範囲、行きつけのパ

ン屋一通りの素行調査まで行った。——得るものがなかったとは言わない、我々

がまだ把握していなかった多くの情報がそこにはあった——しかし、それだけで

は、彼が何を望み何を仕掛けようとしていたのかの全ては摑めていないのだ」

「失敗してなお敗北せず、ってとこか」

音に揺られた鼻の頭がかゆい。指先で軽く搔く。

「自分がどこかで致命的なミスをやらかす可能性まで勘定に入れて、仮にそうい

iたん

うことになっても破錠しきらないような、リスクを細かく分散するやり方で計画

を進めてたわけだ。ほんと、地味いなところで有能だよなああいつ」

フェオドール•ジェスマンは、慎重な少年だった。

謀略に長けた堕鬼種の生まれである……というだけではないのだろう。若さに

甘えず、才気に驕らず、確実な一手を打つために自分の心を徹底して抑え込むだ

けの、強い目的意識を持って動いていた。そうやって生きていた。

少なくとも、ひと月ほど前までの彼は、そうだったのだ。

その一方で、ここ最近の——あの四人の上等相当兵たちと出会った後の彼に

は、少々脇が甘いところがあった◦それまで気を張り詰め続けて生きてきたせい

だろうか、彼自身、無理やり引っ張り出された素の自分自身を、持て余している

ように見えた。

だから、それまで徹底して慎重に動かしていた計画を早めたり、目立つ特別任

務に自ら志願したり、それまでの彼にはありえないようなミスをしでかしたり、

した。

何が彼を変えたのか。そのあたりを追及するほど無粋ではないつもりではいた

、、、〇

「……それまでの自分と違う生き方に惹かれたら、死兵なんてやってらんないよ

だれ

な。誰の話とはこの際言わないけどさ」

「は?」

「何でもないよ、独り言」

視界の隅、何人もの技官がぎゃあぎゃあと大声をぶつけ合っている。なんでも

駐鋤のひとつが、わずかに……具体的には鱗一枚の厚みほど、曲がっていたらし

い。整備責任者は誰だ工房の扉はまだ開いているかこのまま強行運用はできない

のか馬鹿野郎こんだけ歪んでたら一発でへし折れんぞ鋼鉄はお前んちの女房ょり

もデリヶートなんだ何だと説得力すげぇじゃねぇか、大声の応酬は止まらない。

一位武官は、その喧騒に背を向ける。

今日中に、といぅか太陽の高いぅちに見回っておきたい場所はまだ幾つも残っ

ている。あまりゆつくりはしていられない。

「んで。報告はそんだけ?憲兵さんたちの総力を結集して追いかけても、あい

つの足取り、全然摑めてないって?」

「いや。それについては、ふたつほど」

ん?

意外な言葉を聞いて、一位武官は足を止める。

「ひとつめ。どうやら彼は、豚面種たちのネットヮークの協力を得ているょう

だ。彼らは数が多く、またどの浮遊大陸群中の街に散らばっている。彼らの後ろ

盾がある以上、フェオド^ —ル•ジェスマンがラィエル市内に潜伏し続けている必

然性は低い◦護翼軍の網にかからずこの浮遊島を出ることは難しくないわけだか

らな」

「......どうかな」

小さく、異論を眩く。

「やっこさん、この街でやりたいことがまだ残ってる風だったが」

その声が聞こえていなかったのか、それとも聞こえたそれを流したのか。とに

かく憲兵は構わずに話を続ける。

「それを踏まえて、ふたつめ◦三日ほど前だが、スぺサルティン商会所属の交易

船に乗って、素性を偽装されていると思しき人物が数名、この浮遊島を離れてい

もくげきしや

る。直接の目撃者こそいないが、そのうち一名がフェオドール•ジェスマンであ

■こん

ると推測できる材料もいくつか確認済みだ」

「ほう」

「その人物は昨日夜間、28番浮遊島グリムジャル市の港湾区画で交易船を乗り換

えている◦現地発行の通商許可証を提示されたので尋問も拘留もできなかったよ

うだが、行き先は押さえてある」

「お。やるじやない」

強靱な翼を持つごく一部の種族の者を除いて、浮遊島間の移動には、飛空艇を

使わなければならない。そして飛空艇というものは、特別な設備を整えた区画で

しか発着ができない。ゆえに、護翼軍が手配犯の足取りを追う際には、大原則と

して、各地の港湾区画に網を張るという手を使う。もちろん手配犯たちのほうも

その辺りは弁えたものだ◦あの手この手で、その網の目をいかにして搔い潜ろう

とする。

28番浮遊島は、ここから近い中ではもっとも栄えた浮遊島のひとつであり、港

湾区画の規模もかなりのものだ。さらに言うなら治安もそれほど良いわけではな

く、飛空艇および搭乗者のチェックも厳しくはない——というか、抜け道がいく

つもある。

「やるのだ。だから、先ほどの発言は撤回してもらいたい」

「あ一はいはい。足取り摑めてないって言ったやつね。実は気にしてたんだ?」

動作試験を再開することにしたらしく、轟音と振動とをまき散らしながら、砲

撃車輛が再度動き始める。その騒音に紛れさせて、一位武官は「意外と細かいこ

と気にするねえ」と小さくつぶやく。

「何か?」

「いんや何でも。それで? 何を企んでるのかもわからないその元四位武官が、

今はどこにいるつて——」

「-あれ?」

少女の声を聞いて、会話を止める。

振り返る。

「もしかして、バロニ=マキシー位武官ですか?」

若草色の髪を弾ませて、徴無しの——妖精兵の少女が一人、走ってくるのが見

える。

「ティアット•シバ•ィグナレオか」

兎徴種が、つぶやくよぅにその名を確かめる。

「あ、やつばりバロニ=マキシさん」

その少女はぱたぱたと駆け寄ってくると、

「お久しぶりです、ってほど経ってなかったかな、、っ、っんそれでもなんかお久し

ぶりです。どぅかしたんですか、わざわざこんなところに」

「こんなところつて、おまえさん」

別番浮遊島に居を構える護翼軍第五師団総団長は、小声でぼやく。

「口頭で連絡したい件がいくつかあってな◦もっとも、この後すぐに、別の浮遊

島へと飛ぶ予定だが」

「ぅわ、相変わらずお忙しいんですね」

「悲しいことだがな」

「あはは、お疲れ様です」

護翼軍は力を持っている。武力という意味でも、資本という意味でも、権限と

いう意味でもだ。そして、力というものは常に律し続けられていなければ——時

には律し続けられていてすら、暴走するものだ。

この兎徴種、バロニ=マキシは、一位憲兵武官だ。その主業務は、そういう暴

走に備えた、護翼軍内部の監査と監督である。その彼が「忙しい」というのは、

つまり、それだけ護翼軍が不安定な状況にあるということを意味している。

「あ、それで、え一と、総団長のほうの一位武官。お届けものです◦最速お急ぎ

便つて言われましたから、すぐ目を通してください」

「あ一はいはい、こっちの一位武官も相変わらずお忙しい感じですょ一誰か優し

くいたわってくれてもいいと思うんだけどな一」

「そういうアピ <—ルしてるうちは、ほつといても大丈夫そうに見えます」

「信頼されてて嬉しいなぁ」

あつはつは一、とやけくそ気味に笑いながら、被甲種がファイルを受け取る。

「それじゃ、失礼します」

「あ、いや、ちよつと待つた」

くるりと翻しかかつていたテイアットの鍾が、ぴたりと止まる。

「はぃ?」

「テイアット上等相当兵、ちよぅどいいから、少しだけ一緒にこの兎の話、聞い

てよ」

г......む?」

「ほぃ?」

バロニ=マキシとテイアットの視線が絡み合ぅ。

「何かあったんですか?」

「良いのか、先ほどの話の続きとなると、少なからず機密が絡むぞ」

二人の視線が、それぞれに被甲種へと動く。

「それに、この娘は例の者と無関係ではないのだろぅ? 感情的な当事者が絡む

と面倒なことになるのではないか?」

「だからだよ。あいつを相手に、冷静なアタマで策の読み合いを仕掛けたところ

で結果は知れてる。追いつめるにせよ捕まえるにせよ、計算を狂わせるための因

子をぶつけないことにゃ、勝負を始めることすらできやしない」

何の話をしているのか、具体的なところは二人とも口にしていない。それで

も、ここまでそれらしいことを目の前で言われれば、それが何の話であるのかく

らい、ティアットにも読み取れる。

「あの。それって、もしかして」

「うん、もしかするかもしれない話」

あっさりと頷いて、被甲種はバロニ=マキシを見る。

「仕方がないな。ここまで察されたのでは、今さら話を伏せたところで意味はあ

るまい。遺跡兵装適合精霊ティアット•シバ•ィグナレオをしばらく借り受ける

ぞ」

「よろしく。......お目付役に使えそうな位官はいる?」

「幸か不幸か、適役が一人いる◦当人は絶対に文句を言うだろうが、最終的には

まず間違いなく折れるだろう」

「そいつはよかった。んじや、話の続き——」

ぎぎやぎやぎやぎやぎやぎや。車輪と軌条のこすれ合う、耳障り極まりない大

騷音が、不意打ちで三人に叩きつけられる。

揃って顔をしかめ、不快な波が歯の奥から抜けるのを待ってから、

「-さっきの話の続き、ょろしく」

「ぁぁ」

ぴこぴこと落ち着きなく耳介を動かしながら、それでもバロニ=マキシは咳払

いをひとつして、話を再開する。

「逃亡中のフヱォドール•ジヱスマン元四位武官は、スぺサルティン商会の手引

きにょって既にこの浮遊島を脱出。ラキシュ•ニクス•セニオリス逃亡相当兵を

伴ぃ28番浮遊島を経由して、さらに遠方の都市へと向かったことが確認され

た……」

「見つかったんですか!?:」

思わずティアットは声を挟む。が、バロニ=マキシはそれに構わず、

「が、この情報は確度に信が置けず、現在時点では、憲兵隊としても正規の任務

として追っ手を放つことができない」

「え......そんな'」

「まあ落ち着きなさいって」

のんびりとした被甲種の声。

гバロマキの旦那も、あんまり意地悪しないで、結論から言ったげてょ。この

子、いまどきびっくりするくらいまっすぐだから、遠回しな言い方じや通じない

んだ」

「ぇ」

どぅいぅ意味だろぅと^ぅ。

バロニ=マキシは指先で眼鏡の位置を直すと、話を続ける。

「……正規の任務として追っ手を放つことができない◦が、別の名目を用意する

ことはできる◦ちようどいま、現地で厄介かつ複雑な事件が起きているとのこと

だ。応援を要請されているわけではないが、無理やり親切を押し付けるくらいの

ことはできるだろう」

ええと、つまり、どういうことだろう。

明らかに話を飲み込めていない顔のティアットを見て、バロニ=マキシは何か

を諦めたように浅く目を伏せると、

あ/J

「別の任務を与えるという形だが、現地に君を送り込むことは可能ということ

だ。もちろん行動は大きく制限されるだろうが、遠くにいて何もできないよりは

ましだろう」

ティアットは、目を大きく見開く。

「場所は、11番浮遊島、第一港湾区画〇まったく知らない街というわけでもない

はずだ、憲兵隊も第五師団も力は貸せんが、うまく立ち回れ」

開いた目を、一度だけぱちくりと瞬かせる。

Г11番……え?第一港湾区画ってことは、それって」

「ああ◦有名な場所でもあり、君という個人にとっては特に深い縁のある地でも

あるだろう◦浮遊大陸群屈指の古き都であり、あの『エルビス事変』の始まりの

地であり、今はまた別の騒動の渦中にある……」

わずかな時間を挟んでから、憲兵はようやく、その地の名を告げる。

「コリナディル^—チェ市、だ」

2•フエオドール•ジェスマン

鏡の向こうに、知らない男の姿がある。

まるで思春期の妄想のょうな話だが、事実なのだから仕方がない◦フヱォドー

ルが鏡の中を靦き込むとき、その向こうから、自分とは似ても似つかない誰か

が、同じょうにフェォドールの顔を靦き込んでいるのだ。

黒髪、黒瞳。徴無し。覇気のない顔つき。黒い軍服を着込んだ、長身の男性。

知らない顔だ——と言いたいところだが、そうではない。フェォドールはつい

先日に一度だけ、この顔を、驚愕とともに見た。塩漬け樽の奥。〈月に嘆く

最初の獣〉の亡骸だと思って開けた、『死せる黒瑪瑙』とタグの貼られた木箱の

眼るように、この男の遺体が安置されていたのを、フエオドールは見ていた。

г——誰、なんだよ、あんたは」

頭痛を堪え、フヱォドールは鏡面に拳を突き立てた。

鏡の中の男が、同じように、拳を鏡面に突き立ててきた。

『誰、なんだよ、お前は』

少しだけ遅れて、鏡の中の男が、そう尋ねてきた。

「聞いているのは、僕だ」

『聞いているのは、俺だ』

「質問に答えろ」

『質問に答えろ』

きりが、ない。

繰り返される鸚鵡返し。まるで、空っぽの甕に向かって一人問答を繰り返して

いるょぅな気分だ。放った言葉は反響し、歪んで、少しだけ遅れて自分のところ

に返ってくる。

鏡から、視線を切った◦意味のないことを繰り返していても益はないし、それ

どころか、頭痛がひどくなるだけだ。

——参ったな。

明確な幻覚症状〇原因はまず間違いなく、自分が『死せる黒瑪瑙』の箱を靦

いてしまつたこと。そして、自分と目が合つてしまつたことだろぅ。あの瞬間に

呪いか何かをもらってしまったのか。それとも、堕鬼種の瞳……詳しくはフエォ

ドール自身も理解していないが、おそらくは強力な催眠効果の一種……の力が暴

走して、おかしな具合に自分の精神に作用したのか◦正確なところは分からない

が、落ち着いて追求しているような余裕もない。

短い間に、ずいぶんと自分はポンコツになつてしまつたものだと思う。

文武に優れ将来を嘱望されていた四位武官が、いつの間にやら、末期症状の幻

覚を見ながら追われる身だ。情けなさ過ぎて笑えてくる。もつとも、悪徳と堕落

を友とする堕鬼種としては、これも標準的な生き様と言えなくもないのかもしれ

ないが。

「ふう」

度の入つていない眼鏡を取り出し、かける。

鏡のほうを見る。今度は、見慣れた自分自身の姿が映って見える◦どういう理

屈か、あの黒髪の幻覚は、裸眼で鏡面を見ているときにしか出てこないらしい。

対症療法でしかないとはいえ、対策があるということ自体はありがたい。今後は

できる限り、眼鏡をかけておくことにしよぅ。

気を紛らわせるつもりで、窓の外を見る。

苔色のペンキが半ばはげかけている、でっかい姿勢制御翼。固定が甘いのか、

危なつかしくがたがたと揺れる緊急救命風。

そして、その向こう。

視界の下半分を塗りつぶす雲海の白と、残りの半分を染め上げる大空の青。

ここは、スぺサルティン商会所有の飛空艇の中。客用の個室である。

輸送用の大型飛空艇とはいえ、もちろん、それなりの速度は出ているはずだ。

しかし窓の向こぅに見えているものは、まるで貼り付けられた絵画のよぅに変化

のない、苔色と白と青の三色だけ。すぐに飽きる。

かといって、部屋の中を見回したところで、面白いものは特にない。小さな物

置だった区画を簡単に改装しただけの空間。自分がいま腰かけている寝台兼用ソ

ファの他には、小さな衣装棚と河馬の置物と壁掛けの時計と、先ほどの大鏡があ

るくらいだ。

時計を見る。どぅやら、到着まではまだ少々の時間がある。窓の外、飛び去る

小さな鳥の後ろ姿をなんとなく目で追いながら、数日前のことを思い出す。

fT

あれは、ラキシュとともに護翼軍を脱出し、ティアットの追撃を退けた、その

夜のことだ◦向かいたい浮遊島があると告げた時のギギルの表情を、フエオドー

ル•シエスマンは、よく覚えている。

「助けてもらつたことには感謝している。情けない姿を見せたことには謝罪した

い。その上で、手を……いや、足を貸してほしいんだ」

何をする気なのか、と問われた。

まだ38番浮遊島でやることがあるのではないのか、と言われた。

「もちろん、やりたいことは山のように残つてる。けれど、今の僕にできること

は少ないし、やらないといけないことが、それとは別に山のように積もつてる」

全身の筋骨が痛み、絶えず悲鳴を上げていた。そして、それに負けないだけの

痛みが、目の奥のあたりに蟠つていた。

それら全てをかみ殺し、フエオドールは声に力を込める。

「ここで得られる情報は、もう充分に得たよ◦護翼軍の抱える対〈獣〉兵器の要

は、別の浮遊島にある◦四位武官の立場を失ったのは痛恨だったけど、タィミン

グ的にはそこまで悪くない。今の僕がやるべきことは、どちらにせょ、護翼軍に

所属しながらじゃできないことだつた」

ギギルがまっすぐに、フエォドールの目を視き込んできた。

フエォドールはまっすぐに、その目を睨み返した。

表情を偽ることはしなかつたし、その必要もないと思つた。いまこの場におい

てギギルに伝えるべきは、自分が本気であるといぅことと、勝算を本気で信じて

いるのだとい、っ二点だけだつたから。

「僕らは、僕ら自身の手で戦争をしたいわけじゃない。護翼軍の独占する武力と

〈獣〉の知識を、世界に開放したいだけだ。ならば、兵器そのものだけに1泥し

ていても仕方がない◦いま必要なのは、その兵器を生産し、管理している施設の

根つこを押さえることだ」

ぐ、と唾の"塊を飲み込んで、

「そのために、一人、協力を仰がなければならない人物がいるんだ。マゴメグ

リ•ブロントン博士。工学、医学、言語学、神秘学などを修めていて——」

「......多少、遠回りな話にも聞こえますナ」

疑うょうな口ぶり◦当然だ。ギギル•モゼグは商人だ。そして商人とは、曖昧

io^

な夢物語に踊らされたりせず、現実の利を追うことのできる生き物だ。

「尋ねましょゥ。その場合、我々スぺサルティン商会の利ハ?」

「〈獣〉の知識を知りたがっている者はいくらでもいる◦手に入る限りのそれを

惜しみなく広めたいところだけど、そうもいかない。あらゆるものの価値は、そ

れに対して支払われた代価の量でのみ決まるものだ。何の苦労もなく、ただ降っ

てきたものを受け取るだけの情報では、誰も価値を認められない。だから」

「ああ......」

醜い豚面が、さらに醜く歪む。

「成る程。つまり我々にハ、その情報にありがたみがあると感じさせる演出を任

せる卜。そのために、ほどよく法外な金を各所に要求しろ卜」

г言い方ひどいな」

フエオドールは軽く笑う。確かに人聞きの悪い言い方ではあるが、その内容は

どこも間違っていない。正確そのものだ。

「そしテ、その商売のため二、その者の身柄が必要ということでよろしいか

ナ?」

「そう、だね」

「いいでしよゥ。それは価値のある取引になりそうダ。利益が見込めると判断で

きた以上、引き続き、スぺサルティンの者は貴方への助力を惜しまなィ」

「それはどうも」

ギギル•モゼグは豚面種である。豚面種は、身内思いの一族であると言われて

いる。寿命が短いことからくる独特の死生観や文化が、内側に閉じたコミユニ

ティを作るのだと。それが原因で、多くの他種族との間に摩擦を生むほどに。

だから——彼らは、一度協力者として対等の仲間として認め合った相手のこと

を、決して裏切らないのだという。

しかしそれも、いつまででも甘やかしてくれるということを意味しないはず

だQ自分は一度、底抜けに恥ずかしいところを見せて、大きな借りを作ってし

まった。だから、ここからは改めて、この男に、「対等の仲間」としてふさわし

い自分を示し続けていかなければならない。

(本当にいいのかい?)

その問いは、口にしないでおいた。

いまのギギルの言い分には、非常に大きな穴があった。マゴメダリ博士の身柄

が必要だという話と、〈獣〉の知識を得るということとの間に、どういう繋がり

があるのか◦今ギギルの協力を得てフエオドールがやろうとしていることが、具

体的にどのような過程を経て金に変わるのか。そういった、もろもろを、この豚

面は、聞かなかった。

ただ忘れただけ、などということはありえない。そこまで隙のある男ではな

い。ならば当然、それは故意のものであろうという話になるわけで、

(......それも、今は甘えさせてもらうよ)

言葉にしなかった優しさに対して、言葉で礼を告げることはできない。

だからフエォドールは、無言で軽く目を伏せた。

「君は......」

その会話の最後に、ラキシュの意思を確認する時には、さすがに緊張した。

「協力して、くれるかな」

「私があなたから離れるはずがないでしょぅ?」

それが、少女の返事だった。

「行く当ても、やるべきこともないんだもの。だったら私は、この心の求めるま

まに、あなたの傍にいる。何をするつもりだとしても、そのあなたの行いを支え

る。たとえあなた自身が嫌がったとしてもね」

過去の記憶を持たないその少女は、そんなことを言って、幼げな——父母を慕

う幼子のょうな笑みを浮かべた。

(............だから、それは、違うんだ)

フエオドールの胸の奥を、もう幾度目かになる、いつもの罪悪感が抉る。

そもそも、『ラキシュ•ニクス•セニオリス』という名の少女は、もうどこに

もいない。ここにいるのは、砕け散つた『ラキシュ』の人格と、同じょうにばら

ばらになつた別の人格の欠片が、奇蹟的な組み合わさり方をして出来上がつた、

不出来にして不安定なモザィクでしかない。

そして◦その少女の心がフエオド^ルを求めているのも、自然な成り行きでは

ない。フエオドールが少女に対して行使した、堕鬼種特有の瞳力が、暴走的な効

果を発揮した結果でしかないのだ。

だからそこには、正しい心の働きは、何ひとつとして絡んでいない。

この二人の関係には、愛情や友情はおろか、打算すらもが縁遠い。

「あなたは私の、大切な友達、だもの」

だから、やめてほしかつた。そんな綺麗な言葉で飾らないでほしかつた。

そぅ叫びたい気持ちを、フヱォドールは曖昧な笑顔の後ろに圧し込んだ。

ギギルの厚意に甘えて。

ラキシュの心を操つて。

自身ではもぅ何も持たないフエォドールは、臆面もなく他者の力を借りること

でしか、立ち上がれない。

痛み止めが切れていたらしい。

腿の傷の激痛によって、追憶は強制的に中断させられ、フИォドールの意識は

飛空艇の中へと連れ戻された。

「ぃた、いたたたた……」

いつぞやラィエル市の地下に落下した際に、金属柱で貫通された傷だ。あの後

に治療を施され、あと十日もおとなしくしていれば完治するはずだった……のだ

が、その前に無茶な戦闘などをやらかしてしまったせいで、見事に傷口が開いて

しまった。さらには、ついでのよぅにして、全身の筋肉痛までぶり返してきた。

のぼ かたが

もちろん、これでも一度は、四位武官にまでは昇りつめた身だ◦肩書きに恥じ

いつばん

ないだけの戦闘訓練は積んできたし、そこらの一般人よりも痛みに強いといぅ自

負はある。……とはいえもちろん、辛いものは辛いし、嫌なものは嫌だ。

扉がノックされる音。

я

「寝ているかしら?」

返事を待たずに、ノブが回される。扉が押し開かれる。

橙色の髪の少女が、ひょこりとその陰から顔を見せる。

窓際に立つフエォドールの姿を見て、残念そうに一言、

「あら、起きてたの」

「なんで残念そうに言うかな?」

「だって残念なんだもの。寝ていれば、ほら、私が何をしても拒めないでしょ

う?」

「何をする気だったのさ」

「……女の口から何を言わせるつもり?」

「何をする気だったのさ本当にР:」

くすくすと、少女は余裕の表情で笑う。

г冗談よ。あなたに嫌われるようなこと、私がするはずないじやない」

「どうだかね……」

ぼやきながら、フヱオドールはわずかに顔をしかめた。痛覚の波が緩急をつけ

ながら襲ってくる。表情に出さないようにしたくとも、気を張り続けられない。

「ああもう。ほら、無理しないの。痛み止め、持ってきたから」

г……ありがたいよ」

「だいたい、なんで起きてるのよ◦怪我人なんだからおとなしく寝てなさい。顔

色だって真っ白なのよ、自分で見て分からない?」

「あはは」

最近できるだけ鏡は見ないよぅにしているんだ、とは言いづらい。

だから、笑ってごまかす。

「ほら、ベッドに戻って。看病してあげるから」

「いや、その……遠慮しておくよ、女の子の前で強がりたいくらいの意地は僕に

だってあるわけで……」

きゃっか

ラキシュの白い手が伸びる、と思った次の瞬間の浮遊感◦抱きかかえられてい

た。そのまま、軽い荷物か何かのよぅに、寝台まで運ばれる。

「ラキシュさんР:」

「痛々しいだけの見栄なんて、見てられないもの。その道理を通したいなら、も

う少し演技を鍛えてからにして」

フエオドールは堕鬼種である。

堕鬼種というのはろくでもない種族だ◦一族揃って、陰謀を巡らせ、嘘を吐

き、他の種族の者を堕落させることを好んでいる。そして長けてもいる◦その血

を遡れば、あの眼下の大地で、かの邪悪なる人間族から派生して生まれたのだ

という。この説自体の真偽は不明だが、そこまで言われているほどの嫌われ者だ

というのは確かだ。

こんな連中と関わればろくなことがないし、その言葉も表情も信じてはいけな

いというのが、浮遊大陸群に広く知られた通説である。そのはずである。

だから、見栄を見栄だと見抜かせないくらいの演技なら、フエオドールにとっ

て、それほど難しいことではない……はずだったのだが。

「ほら、ちゃんと横になって。それとも、力ずくで押さえつけておいてほし

ぃ?」

「寝ます」

男のプラィドと堕鬼種のプラィド、双方を粉々に砕かれながら、フエォドール

はしくしくとラキシュの言葉に従った。

ベッドに横になり。毛布をかけられ◦子守歌を歌ぅかと尋ねてくるラキシュを

部屋から追い出して。目を閉じて。

г……はぁ」

目的地に到着するまでは、まだ少しだけ、時間がある。

言い換えれば。あと少しだけ待てば、この艇は、無事にその場所へと到着す

今はエルビス事変と呼ばれている、五年前に起きた一連の事件。

フエォドールの故国であるエルビス集商国が滅びることとなった、直接の原

因。

その発端となった事件で、〈穿ち貫く二番目の獣〉と〈月に嘆く最初の獣〉

の……複数種の〈獣〉の強襲を受けた。そして、深く傷つきながらもそれを撥ね

のけた、最初のそして唯一の都市。

一度は行つてみたいところではあつたけど、まさかこんな形になるとは

コリナデイル^チェ市が、近ついてくる。

3 •再会

ところで、テイアット•シバ•イグナレオは、創作物語が大好きである。

68番浮遊島、妖精倉庫からそぅ遠くない獣人の集落にも、古びた小さな映像晶

館がひとつあった。幼かったころのテイアットは、幾度となく倉庫の大人たちに

せがんで、そこに連れていってもらった。

映像晶石はその名の通り、周囲の光景を切り取り保存しておくことのできる、

特殊な石英だ◦その中に閉じ込められた情景が、物語が、映像晶館の設備を通し

て目の前にあふれ出す。様々な種族の様々な者たちが、世界のどこかで繰り広げ

っ^^ん

ている様々なドラマ。そこには愛があり、夢があり、希望があり、冒険があっ

た。それら全てがテイアットを魅了した。

コリナデイルーチェ市は、そんな物語たちの多くの舞台として選ばれていた場

所だ。だからかつてのテイアットは、数々の物語に憧れたのと同じよぅに、コリ

ナデイルーチェといぅ場所にも強い憧れを抱いた。

だが、今のテイアットは、コリナデイルーチェ市に対し、複雑な思い出を抱い

ている。

飛空艇に乗って空を移動している間、テイアットは、ずっとそのことを思い出

していた。戦いがあったのだ。別れがあったのだ。

エルビス事変第一の事件、コリナデイルーチェが〈獣〉に襲われたあの日あの

時に、テイアットはその街にいた。そして、イグナレオを振るって、初めての戦

いへと向かった◦その戦いの中で、——自分たち妖精全員の「お父さん」である

ヴイレムと、別れることとなつた。

子供だったころは、大好きな街だった。憧れていた。

幼い時代の憧れは、いつまでも続かない。成体となり、それなりに現実を直視

している今のティアットは、もう、あのころほど無邪気に空想の物語にはしやぎ

たてることができない。きっとあの地に降り立っても、悲しい記憶ばかりがよみ

がえって、かつてのような昂りを感じることはないだろうと、そう思っていた。

飛空艇のタラップを降りる、その時までは。

г............ふ、」

一度魂に沁みついてしまった憧れは、時とともに薄れはしても、そうそう簡単

に消、又てなくなってくれないものらしい。

「ふわあああああ」

夕刻の11番浮遊島。

飛空艇のタラップを降りて、周囲の喧騒に身を浸して、その地の空気を胸に吸

い込んだ瞬間に、どうしようもない感動の波がティアットの心の内から押し寄せ

てきた。

コリナディル^~チェ市^

歴史の集う場所!蒼空の宝石箱!浪漫と伝説の煮込み鍋!

叫び出したい気持ちを、全身全霊の力で抑え込む。

興奮がとめどなく、体の内側から湧きだしてくる。気を緩めると、今にもこの

はだ つ だいばくはつ

肌を突き破って大爆発を起こしそうだ。

「違う、そうじやない」

ii3たた

落ち着け、自分。手のひらで頰を叩く。

ここは、あれだ、悲しい思い出のある場所なんだ。だから、喜んではいけない

のだ。そんなことをしたら、ええと、ヴィレムに申し訳が立たないというか——

『悲しいことがあっても泣くな、なんてこたあ言わねぇよ◦ただ、そいつを理由

に、笑うのを止めたりはすんな』

——なぜか、突然。

そんな言葉を思い出した。

『悲しくても笑っていいんだ。嬉しくても泣いていいんだ◦泣いたり笑ったりは

いつでも全力。そいつが子供の特権であり、義務ってやつだからな——』

以前に見た、創作物語の中に出てきたものだ◦殺し屋の老人が、殺した相手の

孫娘を引き取り育てていた中で、何度も繰り返していた言葉。

ヴィレムの口から聞いたものではない。けれど、いかにもヴィレムが言いそう

なことだなあと^えた。^えてしまつた。ティアットにとつて、ヴィレム.クメ

シユというのは、そういう人物だった。子供である黄金妖精たちに対し、何かを

禁じたり強制したりするようなことを、ほとんどしてこなかつたから。

だから。もしここに彼がいたならば、今の言葉と似たようなことを言っていた

だろうと、何の疑問の余地もなく確信できてしまって。

「......ああもう*^」

泣き笑いしながら、頭を抱える。結局自分は、この状況、どういう感情を抱い

てこの地に立てばいいのだろう。

大きな都市には、毎日毎日、多くの飛空艇が出入りする◦そしてもちろん、多

くの観光客と荷物とその他もろもろが行き来する。飛空艇というものは原Ш的

に、設備の整った港湾区画にしか接舷できないようにできている。だから、大き

な都市が抱える港湾区画は、昼夜すら問わず、常に多くの何かで溢れかえってい

る。

-えつと。

壊れかけた頭の片隅、かろぅじて残されていた理性の欠片をなんとか働かせ、

現実のことを考える。

ここで、人に会わないといけないのだ。

黄金妖精は、自分たちだけで勝手に出歩くことを許されていない◦護翼軍の位

官以上の者がお目付役としてついていないと、どこにも行けないといぅルールに

なっているのだ。実際には大して重要視されていないルールではあるが、それで

も、積極的に無視をしていいものでもない。

そして、ここまで自分を連れてきてくれた護翼軍の巡回飛空艇は、荷物を下ろ

すとさつさと港湾を離れてしまつた。

「今回のお目付役がここで待ってるはず、って言ってたけど:••:」

話のわかる人だといいなと思う。ティアットの知るこれまでのお目付役は、ど

れもあまり軍人らしくない軍人たちだった。人格の善し悪しについてはとりあえ

ずさておいて、少なくとも厳しい束縛はしてこなかったし、ひとつの人格として

尊重をしてくれていた。そういう人々とばかり巡り合えた時点で、これまでの自

分は幸運だったのだ。そして、これからもその幸運が続くとは限らない。

そんなことを考えながら、辺りを見回してみる。が、それらしい軍服は見つか

らない。

「すみませ^~んといてくださ^~い」

重そうな木箱を抱えた獣人が数名、目の前を走り過ぎてゆく◦ついでに駆け抜

けていった一陣の風が、ティアットの前髪を軽く揺らした。

この付近に突っ立っていたら迷惑になる◦しかし、ここを大きく離れるわけに

もいかない。どぅしょぅかとわずかに迷い、

「テイイイ-」

声が近づいてくる、

「アツトオオオオ!一

死角から。

叫びとともに飛び込んできた両腕が、テイァットの体をがっちりと締め上げ

た。

「んにゃぶっ!?:」

驚きの悲鳴と、肺から押し出された空気とが、妙な風に混ざり合い珍妙な音と

なって迸り出る。

「なんだお前本当にティアットなのか、しばらく見てない間にずいぶんでっかく

なつたじやね一か、な一おい!」

がくがくがくがくと前後に揺さぶられる◦視界がぶれる◦道行く人々が揃って

振り返り、なんだなんだとこちらを見ているのが見える◦めちやくちや恥ずかし

い。恥ずかしいけれども、今はそれよりも、

「え……」

その声を、知っていた。

この、強引にして剛腕のアクションにも、とてもよく覚えがあつた。ほんの数

年前まで、懐かしきあの妖精倉庫で、毎日のよぅに見てきた光景だったから。

「ノフト先輩!?:」

「おぅ!」

ぴたりと、世界の揺れが止まった。そのまま全身を締め付けられる。

強引に身をよじり、なんとか脱出。ぶは、と息をついて、振り返って。そして

よ/っやく、そこにいる人物の姿を認める。

見た目の年は二十前後◦長い、紅葉のよぅな朱色の髪と、それより少しだけ色

の濃い瞳。背の高い女性だ——まっすぐに立ったティアットが、頭ひとつ分ほど

は見上げなければ目を合わせられない。

ひとつの名を思い出す◦ノフト•カロ •オラシオン◦二年か、三年か。そのく

らい前に、護翼軍の特別な任務を請けて、妖精倉庫を出ていった先輩妖精の一

人。

目の前に立っている人物の姿は、そのノフトのものに見える◦声も、ノフトの

それに聞こえる。それに、先ほど名を呼んだ時に、本人が『おぅ』と答えてい

「え、でも......?」

гん?」

そうでなくとも頭がうまく動いていなかったところに、予想もしていなかった

顔を見てしまった。当然、数々の疑問が頭に浮かぶ◦それらを整頓し、もっとも

重要なものから順番に、口に出すことにする。

「髪、伸ばしてるんですか?」

「あ一、やっぱそこ気になるょな。切るのが面倒でほっといてたんだけどさ、

ラーンのやつが似合う似合うって言うから、ちっと本格的に伸ばしてやろうかっ

て」

いや違うだろう。最重要の疑問はそこじゃないだろう。

「また、背、伸びました?」

「ちっとだけな。そういうお前だって相当じゃね一か。あのちんちくりんが、

端に良いところのお嬢さんみて一になりやがって」

けけけ、と意地悪く笑う。

どっかで見たような笑い方だな、と思う。

そして、これもやっばり、最重要の疑問とは言い難い。

「え一と——」気を落ち着けて「——何で、ここにいるんですか?」

そう。それだ。

それこそが、いま最優先するべき質問だ。三度目の挑戦で、ようやくできた。

гん、なんだ、聞いてないのか?」

「何も聞いてませんでした。不意打ちでした」

「あ一、そりゃ災難だったな」

それ、災難の張本人が言うことだろうか。

「あたしらも、おととい高度零地帯から戻つてきて、いきなり言われたんだよ。

そんで、31番の港湾から、こつちまで直で飛んできた」

高度零地帯、それはつまり、

「地上に降りてたんですか!?: おとといまで!?:」

地上◦失われた楽園。〈十七種の獣〉に支配された、死と破滅の大地。失われ

た太古の叡智などが無数に眠るが、それを掘り起こそうとする者の多くは、その

無謀の代償を命で支払うことになる……そんな場所。それと。ヴィレム•クメ

シユの故郷であり、クトリ•ノタ•セニオリスの眼る場所でもある。

「驚くこつちやね一つて。うちの三位技官がそういう仕事してることくらい、ナ

ィグラ^—卜あたりから聞いてんだろ?一

ナィグラート。オルランドリ商会から派遣されている、妖精倉庫の管理者だ。

喰人鬼の女性で、黄金妖精たち全員にとって、姉のような母のような、そんな存

在である。

「それは聞いてましたけど。三位技官、地上調査部隊の指揮監督でしたっけ。い

やでも、そんなにひよいひよい下りたり戻ったりできる場所じゃないですよね地

上って?」

「まあ、二月に一往復つてとこかねぇ。慣れたらそんなにきつくないぞ?」

「慣れるほど行き来するような場所でもなかったはず……って、あ、そうだ技官

さん^」

そうだ◦ノフトとの再会の衝撃で忘れかけていたが、自分はいま、護翼軍の位

官と会わなければいけない状況にあったのだ。

「おう」

ノフトはにやりと笑い、くい、と顎で自分の背後を示す。

「『おう』じゃね一だろ、『おう』じゃ。勝手に走ってくんじゃね一っての。後

でどやされんのは俺なんだぞ——」

ノフトの背後から、小柄な人歡がひとつ、のそりと姿を現す。

位官用の軍服を着た、緑鬼族◦たしか、小鬼の一種で、どちらかというと引っ

込み思案で芸術家肌の者の多い種族だったはず。

「——懐かしき姉妹の再会の最中に、悪いな。お嬢ちゃんが、ティアットか

い?」

「ぁ、はい……」

見たことのない顔。間違いなく、初対面。

けれど、よく知つている人だ、と思つた。

記憶をさらう◦妖精倉庫で、何度も彼の話を聞いたはずだ◦腕利きのサルべ一

ジャーで、何本もの遺跡兵装を地上から持ち帰つてきたとか◦ヴィレムを見つ

け、妖精倉庫を紹介した当人だとか。クトリ先輩の最後の戦いを見届けた一人だ

とか。エルビス事変の後くらいに、強く請われて護翼軍に所属、地上の調査の責

任者になつただとか。今のノフト先輩は、実質上、ずつとこの緑鬼族の護衛とし

て働いているようなものだとか。

そして、その名は確か、

「グリック•グレイクラックだ。よろしくな」

そう。灰色罅集落出身の、グリック。

「はじめ、まし、て」

差し出された深緑色の手を、戸惑いながら、軽く握る。

どことなくごつごつした、何かに熟練した者の手。

「えと、ティアット......ティアット•シ、ハ•ィグナレオです◦いつも、ノフト先

輩がお世話になっています」

「ハハッ」

グリックは振り返って、

「なんだ妹のほうが礼儀正しいじゃね一か、なぁおい?」

「るせ^ ^^•」

楽しそうに、笑い合う。

「倉庫のみんな、元気してるか?」

「え……まぁ、はい、今のところは、たぶん」

「そか。、っん、そかそか」

思い出す。かつてこのノフト先輩は、遺跡兵装デスペラテイオに適合し、ノフ

卜•ケー •デスペラテイオという名を持っていた。が、そのデスペラテイオが戦

いの中で失われ、その名も一度は彼女の名の中から消えてしまっていた。

それからしばらくして、再調整の機会が与えられた。かつてノフト•ケー•デ

スペラテイオであった彼女は、改めて遺跡兵装オラシオンと適合し、ノフト•力

口 •オラシオンという成体妖精兵となった……のだが。

「先輩も、元気そう、ですね?」

「まあ、そいつだけが、あたしの取り柄だからな」

ばりばりと頭を搔く。長い髪が、さらりさらりと上品に揺れる。

なんだこれ、とテイアットは思う。昔の、少年のょうに無造作に髪を短く詰め

ていたノフトは、どこに行つてしまつたのだろう。というか、あの髪がどうして

こんな風になつてしまうのだろう。そして、毎朝寝ぐせに苦しむ癖つ毛持ちの自

分は、嫉妬の炎を燃やす権利があると思うのだが、どうだろうか。

「どうした?」

「あ、いぇ、何でも」

なんだかバッが悪い。目を逸らす。

「なんて言うか、悪いな。年上だつてのに、大変なときに、力になつてやれなく

てさ」

「そんな。……わたしが、無力なだけです」

バッの悪い思いを引きずつたまま、顔をそむける。

гんなわきやね一だろ」

わし、と上からアタマを摑まれた。

「いつだって、お前はょくやってる。誰にも責めさせやしね一さ」

わしわしわし、かき混ぜられた。

少し、むかっとした。何年も妖精倉庫にいなかったノフト先輩に、ティアッ

卜•シバ•ィグナレオの何がわかるといぅのか。

むかっとした。そして、それでもやっぱり少しは嬉しいなと感じる自分自身

に、なんて単純なやつなんだしっかりしろと、少し呆れた。

コリナディルーチェ市内に置かれた護翼軍司令本部までは、そこそこの距離が

ある。

三人、並んで道を歩く。

道すがら、奇妙なものを、街のあちこちに見かけた。

穴だ。

古くから変わらないとされていた街並みのあちこち、石畳や壁面に、大きな穴

が抉り掘られているのだ。いちおうその全てが新しい石材や漆喰によって塞ぎ直

されているがうまく元の美観を取り戻せている力というとなんとも難しい。

「あれ、なんですか?」

尋ねると、ノフトが言いにくそうに頭を搔いて、

「〈穿ち貫く二番目の獣〉だ。五年前、エルビスにばらまかれたやつらを、お前

らが倒しただろ」

「あ……うん。わたしたちだけじや、なかつたけど」

「そうだな。護翼軍の兵士も善戦した。〈二番目〉は、単純な強さだけで言った

ら、大したことがない。普通の火薬銃なんかでも、やり方しだいで形を壊すこと

はできるしな」

ただ、とノフトは続ける。

「〈獣〉は死を知らない存在だ。

切り潰したり焼き尽くしたりすりや、形を壊されたあの連中は、一度、石畳に

こびりつく黒い染みになる◦それも、本当の意味で死んだわけじやね一からな。

時間が経ちや、また形を取り戻して動き始める」

長い間、〈十七種の獣〉の脅威に対して、有効な戦力は遺跡兵装——おょびそ

れを操る妖精兵のみといぅことになつていた。それは、単純な破壊力の大きさな

どだけではなく、生命に相反する概念である魔力を以て与えられた死は、本来は

死を知らない〈獣〉たちといえど無視できないからではないか……と推されてい

るらしい。

「それじゃ、まさか」

ティアットは息を吞む。それは、つまり0

「ま、そ一ゅ一こった。何匹かが生き返って、大パニック。そん時はなんとか収

拾つけたんだが、それ以上復活されたらャバいってんで、黒っぽい染みを石畳や

ら壁やらごと、抉って地上に捨てたんだとさ。けっこう騷ぎになってたらしい

ぜ、当時は」

騷ぎ。それはそうだろう、と思う。

この街に住んでいた人々は、〈獣〉の脅威などまるで知りもせずに-知識と

してはともかく体感や実感としてはまったく触れることなく——生きていたのだ

から。自分とは無関係だと思い込んでいた脅威に突然晒されて、平常心でいられ

るはずもない。

「なんだか……街の人たちの雰囲気も、暗い感じですよね」

気になつていたことを尋ねてみる。

「あれも、あの日からなんですか?」

「いや。二年くらい前から、至天思想が流行り始めたからな、たぶんそつちだ」

至天思想。

浮遊大陸群の歩みと切り離せないほど歴史のある、由緒正しい危険思想だ。

いわく、地上とは穢れであり、それと対になる天空とは清浄である。地上を離

れた我々は、さらなる上を目指さなければならない。浮遊大陸群の大地を離れ、

遠き星空の彼方へと漕ぎ出さなければならないのだ——ぅんぬん。そんな理屈

で、人々を自死(魂の解放と呼ぶらしい)へと誘ぅのだ。

「そ......ですか」

ティアットには、そういう考え方をする者たちの気持ちがわからない。そうで

なくとも限られた命しかない身、限られた時間しか許されていない立場で、なぜ

わざわざそれを捨て去りたいなどと願えるのか。

「寂しい話ですね」

「ま、な」

どんなに輝いているものも、いずれ翳る。ティアットが憧れていたコリナディ

ルーチェも、いつまでもそのままの輝きをとどめていてくれるわけではない。た

だそれだけの話ではあるけれど。

「フェオドール•ジェスマン、つったか。例の、お嬢ちゃんが追ってるやつ」

グリックが、どこか楽し気に、話題を変えた。

「堕鬼種で? ニルビス国防空軍副団長の_理の弟で?護翼軍に入った、っえで

四位武官まで出世して? その間コッコッ準備してた造反計画に失敗して逃走

だったか?なかなか熱い人生送ってやがるよな」

г......ンな吞気なこと言ってていい相手なのか?」

一方、ノフトのほうは、目つきを鋭く尖らせ、不機嫌を隠しもしていない。

「お前らだって、あの国防空軍の連中が五年前何をやったのか、忘れたわけじゃ

ね^んたろ? 連中の残党で、同じことをまたやろうとしてるってんなら、敵も

敵。笑って話せる話題じゃね一ぞ、なぁ」

向けられた視線から逃げるように、ティアットは小さくうつむく。

「あの馬鹿は、そういうのだけど、そういうのとはちよっと違って」

「あん?」

「うまく説明できないんですけど。あいつは、悪いやつだけど、悪いやつじゃな

くて。危険だけど、危ないことなんてできるはずがなくて。ええと」

「いや、ょくわからん」

だろうなと思う。自分でも、何を言っているやらQ

「わからんけど、まぁ、どういうタィプのやつなのかは大体わかった。ったく、

衡かしいツラ見せやがって」

г......え?」

「今のお前の緩み切ったツヲだょ、ティアット。あの時のあいつにそっくりだ」

あいつ。いったい誰のことだろう、と思う。

そのまま少し待ってみた。しかしノフトは、むつつりと口を閉ざしたまま、

「あいつ」については語ってくれなかった。

「しかし、そのフエォドールを追いかけたいにしても、ちぃと状況が面倒だぞ」

グリックは、鼻の頭を搔きながら眩く。

「俺とノフトは第二師団、お嬢ちやんは第五師団の所属◦ここじや今はよそ者

だ。この街で起きてる問題に対する増援って形でここに来ている以上、あまり自

由に暴れるわけにやいかね一からな」

「めんどくせ一な。無視すりやい一じやね一か、そんなのはよ」

グリックは苦笑し、

「そう言うなっての。俺ももう、そこまで無茶ができるほど若かね一んだよ」

緑鬼族の寿命は、浮遊大陸群に住む諸種族全体の中では、やや短い部類に入

る◦十二あたりで成人し、三十のころには老い始め、四十の前後に天命を迎える

とか。

このグリック•グレィクラックの正確な年齢をティアットは知らない。が、本

人がそう言う以上、緑鬼族の基準で、そこそこの年ではあるのだろう。

「あ•やだやだ、守りに入っちまった年寄りってやつはよ• 」

「ぬかしやがれ」

「……えと、すみません。その、この街で起きてる問題って、何ですか?」

おずおずと、ティアットは二人の言い合い——楽し気なじゃれ合いにも見えた

が——の間に割り込んだ。

「細かいところは聞いていないんです◦人手をねじこめそうなトラブルが起きて

る、程度のことしか教えてもらえなくて」

「あ*~、まあそうたな」

「あ、でも、そうか。すみません」ティアットは頭を下げ、「これ、街中で話し

ていい話題じゃないですよね。話の続き、司令本部に着いてからでお願いしま

す......」

グリックは少し考えると、声を落として、

「最近、護翼軍関係者の要人暗殺が四回ほど続いてる」

「......え?一

гノフトも聞け。この話は、たぶん、本部に着く前に済ませておいたほうがい

ぃ」

「あん?」

バロニ=マキシの野郎、どうやら俺がこうするのを見越してやがったな——な

どと愚痴のようなものをこぼしながら、グリックは二人に手招きする。ノフトと

ティアットは一度だけ顔を見合わせてから、緑鬼族の口元に耳を寄せる。

「殺されているのは、全員が、お前ら妖精の調整に関わっていた連中だ」

「-なふぐIV:」

大声をあげそうになったノフトの口を、ティアットは慌ててふさぐ。

黄金妖精は、幼体として世の中に現れる◦それが成長した後に、特殊な調整を

施されることで成体となり、遺跡兵装を手に妖精兵として戦えるょうになる。

成体妖精兵であるティアットももちろん、一度、この調整というやつを受けた

ことがある。が、具体的なその内容についてはあまり覚えていない……裸にさ

れ、何度か注射を打たれたのだが、その中に睡眠おょび麻酔効果のあるものが混

じっていたらしく、処置の大半を半醒半睡状態で受けていたからだ。処置を行っ

た医者に尋ねてみても、「機密だからね」と言って教えてくれなかった。

最近になってわかったことが、ひとつある。

黄金妖精は、幼体として世の中に現れ、そして本来であれば、幼体のまま世界

に溶けて消える存在だ。しかし調整を受けた妖精は、その運命を捻じ曲げられ

る。「成体」としての在り方を許され、その寿命を引き延ばされた◦逆を言え

ば。調整を施されることがなくなれば、幼い妖精たちは正しく妖精として、大人

になる前にその命を終える。

そして、最近になつて発生した問題が、ひとつある。

いろいろな経緯を経てのことではあるが、現在の護翼軍上層部は、兵器として

の黄金妖精の運用を、慎重化しようとしている。そのために、現在妖精倉庫に保

管されている幼体妖精兵たちの調整を、止めてしまつているのだ。

冷静に考えれば、それは一時的なことなのだろうと判断できる。黄金妖精とい

う兵器そのものを投げ捨てることには、ほとんど護翼軍にとつてのメリットがな

いのだ。

成体妖精兵は、扱いが難しい爆弾のょうなものだ。使用するァテもない状況で

何人も保持し続けることには大きなリスクがあり、また大きなコストがかかる。

調整が止められている目的はおそらく、このリスクとコストを最低限とするた

め、一度に保有される成体妖精兵の数を抑えること。だとしたら、今後再び幼体

たちが調整され始める可能性は充分にありうる。

たとえば、今いる成体妖精兵の幾人かが死んで数が減れば◦あるいは、爆弾と

しての成体妖精兵が現在の戦場でも効率的に使える兵器なのだと証明できれば。

そうすれば、消滅の時の迫る倉庫の後輩たちに、成体化という未来を与えてやれ

るかもしれない。

そうだ◦ティアット•シバ•ィグナレオとラキシュ•ニクス•セニオリスとパ

ニバル•ノク•カテナとコロン•リン•プルガトリオ、_分たち四人は、そんな

風に考えて、あの38番浮遊島への出向を志願したのだ——

rrEU、、ミー

誰力」

いまの一瞬で、舌が乾ききつている。

「誰が、どうして、そんなことを?」

「素直に考えんなら、『妖精兵』つーシステムを復帰不可能なレベルで潰したい

誰かつてことになるんだろうな◦妖精兵調整の技術についちや、関係者でもごく

一部しか具体的なところを知らね一らしいからな。そのごく一部を全滅させて、

うまいことフヱィルセーフも潰してしまえば、簡単に途絶しちまう。ま、真実は

いまだ闇の中だがよ」

「どうして」

「さあな、情報の足りね一現状じゃ、なんとも言えね一ょ◦しかも護翼軍の機密

に関わつてるやつらが狙われてるつてことは、テキは内部の情報をある程度摑め

てる疑いが強い。つてんで、司令部の中は今ちぃと、ピリピリしてんだょ」

「……は一」

ノフトがうんざりした声を出す。

「やだやだ、どうしてどいつもこいつも、ィンポーとかサクボーとかが大好きか

ね」

「まつたくだ。もつとこう、シンプルに生きろつてんだょ。なあ?」

「なあ?」

ははは、とティアットはその場を笑つてごまかす。今のこのやりとりを、フエ

ォドールのやつに聞かせてやりたい。

「ともあれそんな寧情でな。幸か不幸か、次に狙われるだろう夕^ —ゲットは、も

、っ絞り込めてる。ほら、お前らもょく知ってるやつだ」

一й(を挟んでから、もったいぶるょぅにグリックはその名を告げる。

「マゴメダリ•ブロントン博士」

ぱちくりと、ティアットは瞬きをひとつ。

記憶をさらってみる。が、ひっかかる名前はないし、一致する顔もない

ええと、

「誰?」

ノフトと二人、声を揃えて尋ねてしまった。

4•黒スーッの少年

コリナディル^ —チェ市。

11番浮遊島でもっとも栄えていて、同時に、浮遊大陸群全体を見渡しても、屈

指の歴史を誇る古都。数多くの詩人がその美しさを、豊かさを、栄光を讃えた。

やはり多くの劇作家がこの地を舞台に、愛を、悲しみを、誇りを、そして愚かさ

を術ぃた。

そういった美意識の類にはどちらかというと疎いフェオドールではあるが、愛

情というものの強さと不可解さについては理解があるつもりだ◦誰もが愛のため

に生きたり死んだり、とんでもないことを成し遂げたり呆れるような失敗をした

りする。コリナディル^ —チェ市が有名であり、多くの人々に愛され続けていると

いうことは、人の心を惑わすことを生業にする堕鬼種として、一種の敬意じみた

思いを抱いてすらいた。が、

「-イメージと、違うな」

ぼそり、正直な気持ちがこぼれ出た。

全体的に明るい色合いの、石造りの街並み。

精緻に作りこまれた小箱細工を並べたような、愛嬌すら感じる温かな風景。

その背後に流れ過ぎ去って行ったであろう何百年という歴史の重みについて

はだ

も、なんというか見た目というより肌で、感じることはできる。

美しい街であったのだろうな、と思う。

愛される街であったのだろうな、と思う。

もちろん、今なおそれらの言葉に間違いはないのだろう。しかし、かつてのこ

の街の美しさ、かつてのこの街の愛され方に比して、いまこの時の、自分の目の

おと

前にあるコリナディルーチェ市のそれは、明らかに劣っているはずだと思えた。

そんなふうに考えてしまう原因は、おそらく-

「考え事?」

г……ぁ、ぃや」

声をかけられ、我に返った。

さほど深く思索していたつもりはなかったが、それでも少し耽っていたらし

い。少しだけ慌て、瞳だけで左右を見回す。現状確認は一瞬で終わった。コリナ

ディルーチェ市の昼下がり、自分はいま、ラキシュと並んで、やや奥まった路地

を歩いている。

この市は広く、その全てが観光地といぅわけではない◦人の多い一画を離れれ

ば、閑静な住居街が広がっている。その辺りの事情はラィエル市とも変わらな

い。もっともこちらは、そんな住居街すらもが、数百年といぅ歴史からくる正体

不明の貫禄とともにあったりするのだが。

「至天思想のポスター。妙に多いなと思ってさ」

「ああ、これ。不快よね」

裏道の壁一面にベタベタと節操なく貼り付けられた、古びたポスターたちに視

線を巡らせる。この世界の在り方を良しとせず、全てを無と死で救済しようとい

う思想。フエオドールとしても、共感も理解もできないしろものだ。生きるとい

うことに向き合えなくなった連中が、言い訳をこねて全てから逃げようとしてい

るとしか思えない。

もちろん、ポスターの数が多いからといって、街の住民の全員がその思想にか

ぶれたとかそういう話にはならないだろう。声を大きくして騷いでいるのは、ご

く一部の極端な連中なのだろう◦しかし、その声の存在を許す土壌が今のこの街

に既にあるのだと考えると、さすがに何というか、残念な気持ちになる。

「景観が台無しよね。せっかくきれいな壁なのに。どうせベタベタ貼るなら、も

う少しレィアウトとか考えてほしかつた」

「え、不快ってそうい、っ意味?」

「他に何かあるの?」

きよとんとした顔で問われる。

г••••:いや、まあ、うん、その話はいいや。視界は?」

「問題ないわよ。進行方向に怪しい人影はなし。……というより、私たちのほう

が浮いていたりしないかしら?」

そんなことを言つて、ラキシュはくるんとその場で一回転。

もちろん、今の彼女は、あの略式軍服姿ではない◦ギギルの手配で現地の商人

に用意してもらった服に着替えている◦性別を感じさせない、まるで地元の少年

のような垢ぬけない装い。住民そのものが尽きかけていたあのライエル市でなら

ともかく、大都市であるこのコリナディル^チェ市でならば、それなりに街にな

じむ。

「似合ってるよ」

「ありがと。社交辞令として受け取っておくわ」

さらつと返された。

「あなたのほぅも、、っん、とても似合ってるわよ。ちよっと不自然なくらい」

言われて、自分の姿を見下ろす。黒いスーッに黒い帽子、同系のコート。さら

には濃い色の入った眼鏡まで◦どれだけ黒が好きなんだ、といぅ装い。平たく

言ってしまえば、チンピラの下っ端そのものである。

「社交辞令……だよね?」

「、っ、っん、こっちは本気。すごくしっくりしてる。......なんだか、悪いことを覚

えたてのお金持ちのお坊ちゃん、って感じで、可愛い」

何それ。

「褒められてるの?」

「褒めてるわよ?」

などとくすくす笑いと共に言われても、あまり嬉しくはない。

そもそもフヱオドールは(家がなくなってからだいぶ経つが)本物の、お金持

ちのお坊ちゃんである。そして、覚えたてとはいいがたいが、実際に悪事に手を

染めた身である。喩えとしては、あまりに気が利いていない。

「ほら、フエオドールって、少し目つき悪いでしよう? 本当は甘ちゃんなのに

見た目で誤解されるタィプっていうか、自分でもその誤解を積極的に広めようと

しているというか。だから、こ、っいうわかりやすい『プチ悪い感じ』の格好が似

合うのね」

「褒められてないよね?」

「褒めてるわよ?一

と——中身のない会話に飽きたというわけではないが、ともあれフエオドール

は前方へと向き直る。そろそろ、目的地が近い。

「さてと。うまく忍び込めればいいんだけど」

「入りたいなら、正面から呼び鈴鳴らせばいいじやない」

「留守だよ。ターゲット——マゴメダリ•ブロントン博士の平時のスケジユール

からして、職場から戻つてくるのは深夜になるはずだ」

というか、そもそもそういうタィミングを狙うために、陽が沈み切る前にここ

を訪れたのだ。留守であつてくれないと困る。

「今回は、ターゲットに長期の協力を要請するつもりだからね。手ぶらの今はま

だ、当人と顔を合わせたくない」

「脅迫のタネが欲しいつてこと?」

「それも否定しないけど、それだけじやない」

路地の出口、その手前で足を止める。

壁に背を預け、先を窺う。住人の姿はない。

服装だけの問題ではなく、自分たちは間違いなく、ここでは目立つ存在のはず

だ。可能な限り、人目は避けていきたい。

「外部の専門家に仕事を依頼する時には、自分が相手に何を頼もうとしているの

か、その依頼内容が相手にどう受け取られて実際にどういう仕事をさせることに

なるのか、最低限のところを理解しておかなければならない。これは、指揮官の

鉄則だょ」

「......、又、又と?.一

「特に今回は、友好的な関係が築けるとは限らないんだ◦表面上は協力的な態度

をとりながら、水面下で裏切る準備を進められる可能性だってある◦そいつを見

抜くには相手の振る舞いの意味を最低限把握していないといけない。さらに言え

ば、そいつを抑制するには、こっちが何をどこまで知っているのかを相手に見抜

かれてはならない。つまり、交渉のヵードは一枚でも多く伏せ持つ必要があると

いうことさ」

г............難しくて、ょくは分からなかったけど」

ラキシュは首をひねり、

「つまり、部下として引き抜き工作する前に、デキる上司のふりをするハッタリ

の準備をしたいということ?」

「あ*.......うんまあそうたね」

曖昧に頷く。 、、

大意は間違っていない気がする。が、微妙なニュアンスが台無しになったとい

うか、格好がつかなくなったというか。少し、寂しい。

この辺りは、街が巨きい。

比喩でもなんでもない。単なる事実として、フエォドールたちが現在歩いてい

る辺りは、街を構成するほとんどのパーッが、他所に比べて巨大に作られてい

る。建物、その窓枠に扉、街灯、敷石、鉄柵、道端の曆箱に至るまで。例外とな

りそうなのは、おそらくシンプルに巨大なものを用意できなかったのだろう、街

路樹の類くらいだ。

「大きな街」

ぼんやりとした声で、この街区を、ラキシュはそう評する。

「不思議な気分。お伽話の中に入ったみたい」

「妖精の言葉だと思うと、重みが違うね」

ここは、巨大な体格を持つ諸種族のための住居区画である。

コリナディルーチヱ市には様々な種族の者が住んでいる◦それは、様々な種族

に対応する形で街が造られていなければならないということでもある。

文化的な軋櫟ひとつをとっても、克服は困難なのだ。いくら法を整備しよう

と、いくら相互理解を進めようと、「違う存在」が交ざり合うことには困難が付

きまとう。まして、体格的な差異から来る問題に至つては、何をどうしたところ

で根本から解決する術はない。巨鬼種の成人がどれだけ背を丸めたところで、

朱鬼族の家の扉はくぐれないのだ。

だから、種族ごとに……というか、大まかな体格や居住地傾向によって、住処

を物理的に分ける◦有翼諸種は風の通る高いところへ。魚面諸種は人工湖のそば

か、あるいは底へ。小柄な種族は、何もかもを小さめに造った場所へ◦そして大

柄な種族はその逆、何もかもを大きく造った場所へと住処を集めた。

最後のそれが、つまり、フエォドールたちが今あるいている、この場所だ。

「やられた」

その部屋に入ってすぐに、フヱォドールは舌を打った。

荒れている。

書棚の中身が全て床に投げ出されている◦テjブルの位置がおかしい。絨毯が

雑にめくられた跡がある◦箪笥に至っては、中身ごとその場にひっくり返されて

いる。

「先客がいた、といぅことかしら」

巨大な種族の住居区画の中にあるのだから、もちろん、この部屋自体も街並み

に劣らず巨大にできている。天井は高いし壁は遠いし、椅子はよじ登らないと座

れないほど高いし、テーブルに至ってはフエオドールの目よりも高いところにあ

るQ小さな子供のころに見えていた世の中はこんなものだったかな、と懐かしい

思いをしなくもない。

「ひどいのね。こんな散らかし方じや、片付けも手間よ?」

早足でいくつかの部屋を見て回ってきた——廊下も広くて長いので普通に歩い

ていたのでは時間がかかる——ラキシュが首を振る。

「どこの部屋も、似たような感じよ」

フエオド^ —ルは少し考えて、

「無事な部屋は?荒らされ方は?」

「見た限りでは、どこも似たような感じ。金目のものを狙った、というようには

見えなかったけれど」

「住人の抵抗の痕跡とかは?」

「何もなし」

「どぅするの? いったん出直す?」

「ぃゃ」

フエォドールはいったんかぶりを振ってから、薄手の手袋をはめなおすと、床

に落ちた本の一冊を手にとろぅとした……が、あまりに大きく重かったので諦め

た。床の上に置いたまま、ばらばらとぺージだけめくる◦家庭でできる簡単レシ

ピ、まるごと羊総集編。

「それ、特別な本?」

「いや。普通の市販本だょ」

別の一冊の中身を改める◦古代のお伽話選集。すぐに次の一冊へ◦樽で飲める

お酒のおいしい店。さらに次へ。ハードカバーの小説(巨大なせいでひときわ重

い)を掘んで、

「やっぱり、そうだ」

納得し、次に移る。厚い絨毯の上から、ばらばらになった時計の残骸を拾い上

げる。いくつかの角度から中を■き込んで、自分の中の予想を確信に変える。

じよ、っきよ、っ

「でも、そうすると、まさか......参ったな、そこまで状況悪いとは思ってなかっ

た」

裾を引かれる。

「……ちょっと。一人で納得した顔してないで、少しくらい説明しなさいよ。何

がわかったっていうの?」

少し躊躇する。ここまでに集まつた情報や推測は、まだはつきりとした形を持

つほどのものではない。全体の輪郭がぼんやりと見えてきた程度のものだ。

それでも、聞かれた以上は、少しくらいは答えるべきだろぅか。

「まず先客の目的は、破壊や金品強奪の類じゃない。これは自明。それと、一人

じゃない。おそらく五人から十人くらいの集団。そこそこ以上に本格的な犯罪組

織の構成員かな。この家や近辺に住む巨鬼種とかではなく、体格は僕らとそれほ

ど変わらない。目的は紙切れサィズの何かで、見てそれとわかるレベルのわかり

やすいものだ。なお、かなり高い確率で発見済みか、あるいは競合する敵組織が

あつて衝突を避けているか、してる」

ふんふんふん、とラキシュは頷きながら聞いていたが、

「......ど/っして?一

当然といえば当然の疑問を投げてきた。

もちろん、話せば長くなる。ぅまいこと要約しながら話そぅと少し考えて、

「人数に関しては、部屋の荒らし方に斑があるから。家宅捜索の訓練を受けたや

つと、そぅでないやつとが交じってる◦それでも、全員が、あまり派手な音が出

ないょぅな破壊しかしていない。ほら、あれこれ壊されてるわりに床にも壁にも

ひび ほう

傷がないし、壊された残骸はほとんど音の響かない絨毯の上に放り出されてる。

といぅことは、訓練の度合いに個人差はあれど、全体的にそれなりに統率のとれ

た集団だと推測できる。体格の予想は単純に、モノの投げ出し先が僕らの手の届

く範囲内だから◦巨鬼サィズがやった狼藉だった場合、もぅちょっと広くこの部

屋を使えていたはずだ。それから……」

足元に散らばる書籍類に目を落とし、

「ここにある本、ジャンルがけつこぅばらばらだ。中身に一貫性がないのに、一

通り中身をチェックされた痕跡がある◦ついでにほら、ヵバーに厚みがある本な

んかは、切り裂かれて中を確認されてすらいる◦つまり、謎の連中の目当ては、

本のぺージの間に挟めるよぅなサィズの何か。他の場所の調べられ方からも、だ

いたい同じ結論が出せる◦絨毯がめくられてたり、時計も空洞部分がはっきり見

える程度に破壊されてたりね」

と、とりあえずそこまで説明を終えて、

「ざっくり説明するとそんな感じだけど、わかっ——」

気づいた。

思わず、説明に熱が入っていた。

頭の中にぐちやぐちやに詰まつた思考を、整頓しながら、にゅるにゅると外へ

押し出していく。そんなものを聞かされる側はたまつたものではないだろうと、

いつもはそれなりに自制しているのだが、一度勢いがついてしまうとどうにも止

まらない。

呆れられては、いないだろうか。

おそるおそる、ラキシュのほうを振り返つた。

г-あれ?」

その表情は、どのように読み取るべきものなのだろうか。驚愕と戸惑いまでは

わかりやすいし、ほぼ予想通りのものでもある。しかし、それらに加えて見えて

いるこれは、

「さすがね」

「え?」

信頼、だろうか。いや、でも、まさか。

「悪だくみは得意だ、なんて自称するだけはあるじゃない。観察も分析も洞察

も、私が予想していたよりずっと上」

「え? あ、うん?」

想定外の反応だった。

自分の世界に入り込んでべらべらとご高説を垂れる、あまり良い印象を与えな

い行動だろうと思っていたのに。

たとえばティアットなら『気持ち悪い』と言って顔をしかめ、パニバルなら

『君らしいな』と言って微笑んで、コロンなら『わるい、聞いてなかった!』と

言って大笑いし、そして、昔のラキシュさんなら『すすすみません、よくわかり

ませんでしたがすごいと思いますっ!』とフォローになっていないフォローを入

れてくれただろう、と-

「それで、続きは?まだ説明、終わってないでしょ。目的のものが発見済みだ

とか、競合する敵組織との衝突を避けてるとか言ってたじやない」

「ああ」

改めて我に返り、一度は引っ込めていた自分の中の思考を改めて引っ張り出

す0

「そのへんは単純だょ。ここに誰もいないからだ。考えられるバターンは、無事

に目的を果たして退散したか、邪魔が入り目的を果たせずに退散したかの二通

り。おそらくは前者が正解だと思うけど、後者だとしたら、その『邪魔』として

考えられるのは、」

言葉を切る。

「-ああいう連中?」

ラキシュが尋ねた。

「そうだね。まったく、タィミングがいいんだか悪いんだか」

やたらと高い天井を一度仰いでから、壁に背を預け、ヵーテンの隙間から外の

棣子を窺う◦怪しい人影が、ちらちらと物陰を移動しているのが見える。

Г4Л......ううん、もっといるかしら。なかなか攻め込んでこないわね」

「裏に回った分まで合わせて十六人、かな。この家を包囲しようとしてるんだろ

う。武官の市街戦教本にあった陣の張り方に似てる◦おそらく、この家の中に大

勢の賊がいると想定して動いてる」

「大勢?」

ぴくりとラキシュが耳を震わせる。

「私たち、二人しかいないけど」

「そうだね」

つまり、これは、あれだ。

さっきまでここにいて部屋を荒らしていた連中と、その後にたまたまここに居

合わせてしまっただけの自分たちとを、間違えられてしまったというわけだ。

なんて、間の悪さ。二人そろって、嘆息する。

「話せば、誤解を解けたりしないかしら。ただの通りすがりなんです、って」

「素敵な案だ。世界が愛と平和に満ちた後に、ぜひ一度試してみたいね」

つまり、永遠にその案が採られることはないという意味である。

「じゃあ、抗戦する? 三分もあれば殲滅できると思うけど」

かた

手ぶらのラキシュが、こきこきと肩を鳴らす。

セニォリスは大きくてかさばるため、ここまで持ってきていない。だから、い

まのラキシュは、非常に限られた戦力しか発揮できない。その上で、おそらく彼

女の言葉には、嘘も楽観も強がりもない◦魔力を全開に熾した成体妖精が暴れれ

ば、十六人のプロ集団程度、何の障害にもならない。それは事実だ。

だが、

「いや、だめだ。あれはどうやら護翼軍だ」

カーテンの隙間を視きながら、フエオドールはラキシュを制する。

「君が魔力を使ったら、僕と君の素性が完全にばれる◦本格的に動き出せてもい

ないうちから手のうちを晒すのは避けておきたい」

「つまり、全員きちんと、とどめをさしておけということね?」

「命を大事にする優しい君のほうが好きだよ僕はР:」

冗談よ、とラキシュは言うが、どこまで#じていいものやら。

「となれば、普通に突破するしかないかしら。ちやんとついてこられる?」

「もちろん」

顔を窓の外に向けたまま、目だけで頷きあう。

帽子を深くかぶり、マフラーで口元を覆い、多少なりと顔を隠す。

「それにしても、そのマゴメダリ博士って、ずいぶんな人気者なのね」

「まったくだ。アプローチのやり方、もう少し考えたほうがよさそうだね」

軽口を叩きながら、タィミングを計る。

「いち、にの……」

窓の外を睨み、ラキシュが数字を数える。その横顔を見ながら、ふとフエォ

ドールは、ティアットのことを考える。あの馬鹿は、今ごろどこで何をしている

だろうか。38番浮遊島のあの廃劇場の上で、一人、遠くの空を眺めているのだろ

うか。

めぼしいパン屋はほとんどが閉店した。料理上手のラキシュも、もう彼女のそ

ばにいない。おいしいドーナツを揚げてくれる者は、もう、誰もいない。ならば

彼女は、何を食べるでもなく誰と話すでもなく、ただあの場所に座っているのだ

ろうか。

自分と彼女が初めて会った、あの時のように。

「さん^」

追想は一瞬だけのこと、現実の時間は容赦なく流れてゆく。

窓を大きく開け放ち、フヱオドールとラキシュは、表通りへと飛び出した。

5•暗がりの二人

ところで、ここに一人の男がいる。

名は、マゴメダリ•ブロントン。

大罪人だ、と彼は自身をそう称している。

浮遊大陸群には、様々な種族の者が住んでいる◦それらの種族のほとんどは、

同種の者たちだけで固まった集落を作ったりはしていない——様々な課題を抱

え、問題を起こしながらも、交ざり合うょうにして都市や村などを形成してい

る。

しかし、一部であれ、他の種族の者とともに暮らすことがそもそも難しいとい

う種族も存在する。土中に巣を作る蟻人種や水棲の魚面人などについては言わず

もがな。有翼諸種の頂点であり支配階級でもある貴翼種のょうに、文化や伝統な

どを理由に他の種族との交流を拒んでいる者もいる。

その酒場は、そういった「特定の種族のための街区」のはずれにあった。

陽はとうに沈んだ◦閉店の時間が迫っている。もともと繁盛しているとは言い

難い店だが、当然のことながら、この時間には特に客の数が減る。ヵゥンタjの

たすみ かむ

片隅で、常連の男が一人、静かにグラスを傾けているのみだ。

かろかろん、と小さな音をたてて、扉が開いた。

グラスを磨いていた店主が顔を上げて、新たな来客のほうを見た。

「すみません、そろそろ閉店の時間で-」

「やっと、見つけた」

女の声。

常連の男が、ゆっくりと顔を上げて、扉のほうを見る。そこに立っているの

は、声の印象を裏切ることのない、小柄な女だった。

疲れ切った老人のょうだった男の表情が、ゆっくりと、驚きの色に染まる。

「……どうして、君がここに」

女は目を伏せ、軽く首を振る。

「あなたに、お願いがあって」

「取かだ」

一言の艇艇。

「まだ、何も言っていないのに」

「言われなくても分かっているさ。僕は君のことを知っている-少なくとも、

いまこの時に、君が何を望むょうな女性であるかくらいはね」

「だつたら」

「だからこそ」

再び◦全てを語らせはしない、その意志を語調に強く込めて、女の言葉を遮っ

た。

「だからこそ、駄目だと答えたんだ。それは危険なことだし、許されないことだ

し、そもそも限りなく不可能に近いことだ」

「でも」

「でも、じやない。この話はこれで終わりで、続きはない」

短ぃ1|1。

「私には、いまさら自分の身をかわいがるような資格、ないわ」

「それは君の勝手な言い訳だ。自分の命を想う権利は誰にだってあるし、誰にも

う尤

奪えるようなものじやない一

男が静かに言葉を挟む◦女は構わず、

「いまさら、誰に許されるつもりもない。いいえ、ここで立ち止まつてしまつて

は、自分で自分を許せなくなってしまうもの」

「君はもう少し、自分に寛大になっていい。周りの者たちが、君を認め赦してい

るのと同じくらいには」

「あなたに言われたくないわね、その言葉だけは」

女はうんざりと首を振り、

「不可能に近いというのは、むしろ朗報よ◦他ならないあなたの口から、不可能

そのものではないと、教えてもらえたわけだから」

ああ。男は絶望的な表情で天井を仰ぐ。ああ、まったく、なんてことだ。この

子は、この高潔な女性は、愛が深すぎる。過ぎた愛はその身を焼き滅ぼす、その

ことを深く知りながら、それでも迷わずその身に火を放とうとしている。

「君は、」

迷いながらも放とうとした制止の言葉を、ふと飲み込む。

女の背後◦裏路地の奥から、足音が近づいてくるのが聞こえる◦一人や二人で

はない。十人を超える、不揃いの早足。

女が振り返る——よりも少しだけ早く◦足音の主たちは、闇の彼方から姿を現

した。揃いの、鼠色のコート。手には、銃身の長い火薬銃◦全員が一言も発する

ことなく、扉から店の中へと踏み込んで来る。

「ちよつとР:」

女が戸惑いと怒りの混じる声をあげる。が、闖入者たちは女を無視し、カウン

ターの奥の男を取り囲むように立つ。

「マコメダリ•フロントン博士デスナ」

一人、小柄な爬虫種が、軋るような声でそう尋ねた。

「この店、もうすぐ閉店だよ◦団体さんで飲むなら、他の店を探したほうがい

ぃ」

「マコメダリ•フロントン博士デスナ」

男の軽口にまるで取り合わず、爬虫種は同じ言葉を繰り返した。

音もなく、十一人が十一の火薬銃を構える。十一の銃口が男を捉える。

г……やれやれ。有名人のつもりもないし、君たちみたいな人種に名刺を配り歩

いた記憶もないんだけどな」

疲れたような苦笑。その答えを、肯定と受け取つたのだろう。闖入者たちは互

いに領きあうと、姿勢を正し、男の包囲をやや狭める。

銃口が、男の背に、突きつけられる。

女が息を吞む。

「ゴ同行願ィタィ」

「断る、つてわけにはいかないんだろうね」

男はグラスの中身を一気に飲み干すと、諦めたようにスッールから立ち上が

る0

のつそりとした足取りで、歩きにくそうに、男が動き出す。

扉の前で、立ち止まる。わずかに顔を伏せたまま、女が立ちふさがつている。

「……どこへ行くの、先輩」

「ここじゃない場所だよ。少なくとも、君やこの店を巻き込まないような」

「この人たちは……」ぐ、と息を呑んで「護翼軍は、これから何をしようとして

いるの」

「言えないよ、わかるだろ?というか、わかってくれよ」

また別の銃把が男の尻を小突く。 「わかってるって」と男は力なく答え、

г-ぃゃ」

気づき、顔を上げた。

無力に肩を震わせる女を、まっすぐに、見た。

「それは駄目だ。いけない。思いとどまるんだ」

慌てたように、制止の言葉を繰り返す。

何のことかと、闖入者たちの顔に、疑問の色が広がる。

「君はまだ間に合うんだ。いくらでも未来がある。けれど、それをやってしまっ

たら、君までこちら側に来てしまう。引き返せなくなる。終わつてしまう!」

銃口のひとつが、女に向けられた。

残りの銃口が、少しだけ遅れて、やはり女へと照準を合わせた。

女が、伏せていた顔を、ゆっくりと上げる。

「……それはつまり、こ/っいぅことかしら。二度と引き返せないところまで私が

迪り着いてさえしまえば、先輩は、私の話を聞き流さずに聞いてくれるよぅにな

る-」

「駄目だ!」

男の悲鳴は、今さら女の耳には届かない。

「君は、君だけは、この連中に敵対しちやいけないんだ!」

6 •護翼軍第一師団

マゴメダリ•ブロントン博士。

種族は単眼鬼◦職業は医者であり、研究者である。

医学、言語学、天文学、物理学、工学、史学、経営学、神秘学……何十年とか

けて幾度となく学術院へと入り、卒業し、いくつもの分野の知識を修めた才人で

ある。単眼鬼は長寿の一族であるため、長い人生を学問に注ぎ込む者も珍しくな

い。とはいえ、彼のょうに節操なく様々な分野に手を出す者はそう多くない。

一応コルナディルーチН市の総合施療院に所属し、様々な薬剤開発や治療法研

究の指揮をとっている。黄金妖精の生態おょび成体化調整技術の研究も、そう

いったプロジェクトのひとつとして、何十年もの長さにわたって担当してきてい

る。もう何十年も昔のことになるが、業務上必要なこととして、二位呪器技官の

あ/J

地位を与えられたこともあると力。

つまり◦現在すベての成体妖精兵たちが調整の時に世話になった、単眼鬼の医

者、その人のことである。

「あ•、あ• "一Фアレか*あのでっかいおっさんか*」

ノフトがこくこくこくと首を縦に振つている。

ティアットも、もちろんその人物のことはょく覚えていた。でっかいシ^ツみ

たいな白衣を着た単眼の巨漢。調整前の問診をしている間、こちらが小さかった

こともあって、目を合わせるために猫のょぅに背を丸めていたのが印象的だっ

た。

「そっか……そんな名前だったんだ……」

ぼんやりと、ティアットはそぅつぶやいた。人には名前があるんだな、などと

当たり前のことを今さら再確認したりもする。

「ナィグラートが学生時代に世話になった先輩でもあるんだとさ。当のマゴメグ

リ博士にとって何週目の学生時代の話なのかまではわかんね一が」

「へぇ?」

と言われても、いまいちピンとこない。

「それで?あのおっさんが、次に暗殺されるって話になってるわけか?」

「そぅなるな」

短ぃ沈黙。

「無理じゃね一か?」

ノフトがぽつりとつぶやいた。

ティアットも同意見である。こっそり、無言で頷く。

単眼鬼は、巨大だ。体格に見合った重量もある。そして、その身の内側に秘め

た生命力は、喰人鬼と比較されるほどに強い。

並の刃では刺さらないし、毒が効くという話もないし、火薬銃で撃たれたとこ

ろで大して応えないだろう◦本当の意味で不死である〈獣〉などを別にするなら

ば、浮遊大陸群でもっとも殺しにくい生命のひとつであるはず。

「さて、どうだろうな。『無理じやね一か』程度で諦めてくれるような相手な

ら、それこそ話は早えんだがよ」

街を行く。

いつかの思い出が、少しずつティアットの内に蘇ってくる。

大通り。最初にここを歩いた時には、ヴィレムと一緒だった。わがままをたく

さん言った◦仕方がないなと呆れながらも、なんだかんだで嬉しそうに、あの人

は自分のわがままに付き合ってくれた。

二度目に訪れた時には、大勢だった◦あの時にはラキシュもいた。あんなおと

なしそうな顔をしているが、あの時のあの子は、最初の時のティアットよりも激

しく興奮していた、と思う。引っ張られて、振り回されて。さんざんな思いはし

たけれど、とても楽しい思い出だった。

——ああ、なぜだろう。

小さかったころから映像晶石で見てきた場所◦どこの通りでどんなドラマが繰

り広げられていたのか、全部暗記している。けれど、道々で思い出される情景

は、晶石越しに見たどのシーンでもなく、自分自身がその場所を、誰かと走り

回っていた時のものだ。

護翼軍司令部の正門を潜る。

г......А?」

妙な空気が流れている。

いわゆる戦闘中の緊張、というのとは少し違う。大声を上げる者も走り回る者

もいない。ただ、行き交う兵士たちがいずれも、ピリピリとした奇妙な緊張を漂

わせている。

「ここ、あまり来たことないんですけど」ティアットは辺りを見回す「こんな感

じの場所、でしたつけ。だいぶ雰囲気が違うみたいな……」

「今ここを使つてるのは第一師団だからな。ラィムスキンの旦那の第二師団がい

たころと比べりや、そりやあ変わるさ」

第一師団は、護翼軍の中でも、浮遊島同士の限度を超えた争いを調停すること

を目的に編制されたものだという。そのため、〈獣〉のような不死の外敵などで

はなく、同じように生命を持つた大陸群の住人とのみ敵対し、戦つている。

〈獣〉たちとの戦いの場で感じていたそれとはずいぶんと違う、この居心地の悪

い緊張感はそのせいか。そう、テイアットは理解する。

「それだけつて感じでもね一な。また面倒なことになつてなきやいいんだが

「グリック•グレィクラック三位技官?」

小柄な羊頭の上等兵に、声をかけられた。

「それに、お連れの方々は、ノフト•カロ •オラシオン上等相当兵と、ティアッ

卜•シバ•ィグナレオ上等相当兵ですか?」

「ああ、そぅだ◦連絡は行つてるょな、『黒塗りの短剣』事件の件で、第二師団

と第五師団から応援としてやつてきた」

黒塗りの短剣。それが問題の連続暗殺事件につけられた暗号名であるらしい。

ところかまわず連続殺人という言葉は使えないから、という理屈だろうけれど、

あまり大差がないような気もする。

「ええ、まぁ、はい。承つています、はい。しかし、そのですね……」

「長旅の後なんでまず休憩させてくれ……と言いて一ところだが、どうやらさつ

そく何かあつたみて一だな。一通りの事情を教えちゃくんね一か。あるいは、そ

いつを話せる権限のあるやつんとこまで連れてつて欲しいんだが」

「いえ、そのですね、はい」

上等兵は曖昧な相槌を繰り返すばかりで、いまいち会話が進まない。

「なあ、おい。俺、そんな難しいこと言つてるか?」

「いえいえ、その、別にそういうわけではないのですが。そうだ、休憩の件でし

たら、ええ、すぐにでも。士官用のお部屋にご案内しますので……」

「いや、だから、それより先にだな」

再度詰め寄られた上等兵は、観念したよぅに、

「……申し訳ありません。第一師団総団長の命により、情報はお渡しできないの

です」

羊頭を下げて、そんなことを言った。

「は」

「はぁР:」

素っ頓狂な声を出したのは、ノフトだった。

「何だよ、そりゃ|?:どぅしてそぅいぅことになんだよ!?:」

「わざわざ遠いところからお出でいただいて、本当に申し訳ないのですが、え

え、あなたたちをこの件には関わらせられないとのことで……」

ノフトが頰をひくつかせ、

「なんだとこんにやろ^つ^」

血管が切れた音が、聞こえたような気がした。

す力す力す力と ノフトヵ廊下を行く。

「ま、待つてくださいよ先輩、落ち着いて」

ティアットは慌てて、その背を追いかける。

「あたしや落ち着いてる!」

「そういうこと言つてる人が本当に落ち着いてるなんてことありませんから!

ああもう、グリックさんも止めてくださいよ^なんで笑つてるんですか^」

「あ一、いや。俺も、怒ってね一わけじゃね一んだがな。そいつが先にキレち

まったからタィミング逃したっつ一か◦いつもよりだいぶキレ方が丸いから、手

綱もお嬢ちゃんに任せときゃ大丈夫だろぅしな」

「そんな無責任なぁ!」

腰に抱き着いて引き留めよぅとしたが、無駄だった◦強引に前進するノフトに

引きずられ、ずるずるずるると廊下を這い進む羽目になる◦誰ともすれ違わな

かったのは幸運だった、こんな姿、身内以外の誰にも見せたくはない。

「おいこらあ*」

ノックなど、もちろん、するはずもなく。

第一師団総団長室の扉を、ノフトは、叩き割らん勢いで開く。

「……騷々しいな」

果たしてそこに、目当ての人物は、確かにいた。

窓際に立ち外を眺めていた巨漢の黒山羊頭が、ゆっくりと、振り返る。

「あんたが、ここの総団長か?」

先輩いいい!と、叫びたいところだったが、うまく声が出ない。

「如何にもその通り。ヵゲラー位武官、護翼軍第一師団総団長の座を拝命してい

る。して、そう尋ねる無礼者は何者だ」

重い、威厳に満ちた声。

「第二師団所属、上等相当兵ノフト•ヵロ •オラシオン。この名乗りの意味、総

団長サマならよくご存じのはずだよなあ?」

「……ああ。例の精霊兵器であるか」と黒山羊頭はつまらなそうに、「この目で

見るのは初めてだが、なるほど、人がましく話すというのは真実であったのか」

「-へぇ」

「先輩いР: 待って、止まって、思いとどまって!ダメだから、それ以上失礼

なことしたら、ラィムスキンさんたちにも迷惑かかるからあ!」

今の自分、ちよっとラキシュみたいだな……必死になってノフトに飛びつきな

がら、そんなことを思う◦周りが無茶をやって、必死になってそれを止めようと

して、でも言うことを全然聞いてもらえなくて。

なんというかこれ、体力的にも精神的にも、想像していたよりも大変だ。ラキ

シュはいつも、こんな思いを抱えていたのか。今度あの子に会ったら、なんかい

Пぎら

ろいろ労おう。それと、謝ろう。

「はいはい、お騒がしいところ失礼しますよっと。第二師団所属、機甲三位技官

ゞっかが

グリック•グレィクラック、ちいとお話を伺いて一んですがね」

開いた扉から、グリックがひよいと顔を出す。

г貴殿がこの兵器の目付役か◦任された手綱であれば、確りと握るものだ。あま

り勤勉な質ではないと見えるな」

ナいがん

「へっ」グリックは鼻で笑う「そいつはご慧眼◦個人的にはいまだに、なんでま

たこんな窮屈な服なんざ着てるのか納得できてね一ところがありましてね」

「であろうな。//石灰岩//はいつも、貴殿のような迷い人を己が舎に誘う。長い

付き合いだが、あの哲学じみた嗜好ばかりは、いつまで経っても理解できん」

疲れたように、山羊頭が首を振る。

あれ、とテイアットは不思議に思う◦今のは苛立ちを表すような言葉であり、

仕草だった。だというのに、どういうことか、目の前の人物から//石灰岩//——

ライムスキンー位武官への悪意や敵意というものは、まるで感じられなかった。

どちらかというと、敬意とか、親愛とか、そういつたタイプの……

「ともあれだ。望まぬ増援とはいえ、客は客である◦無下に扱ぅつもりはない」

「どの口でムガ!」

「だから先輩は落ち着いてぇ!」

妖精二人の取っ組み合いにはまるで構わず、山羊頭はグリックに向かい、

「ここまで押しかけてきた理由を確認する。『黒塗りの短剣』の一件から外され

た事を得心できん、といぅことで相違ないな」

「話が早くて助かるね」

かた

グリックは肩をすくめる。

「こっちだって、手伝いのバィトで来てるわけじゃね一んだ◦多少居心地悪ぃ思

いをさせられる程度ならともかく、理由も言わずに門前払いつてのは、さすがに

「理由を語れば良いのだな」

ふ、と山羊頭は嘆息とも嘲笑ともつかない息を漏らし、

「昨夜、マゴメダリ•ブロントンが拉致された」

「......はぁ?」

「確定情報だ。裏をとってもらっても構わん」

「あ、いや……別に疑ってるわけじゃね一んだが」

へぇ、とノフトが感心したような声を漏らす。

「あのおっさんを、拉致ねぇ……どこの誰だか知らね一が、すげ一じゃね一か」

確かに。不謹慎だとは思うが、それはそれとしてノフトの言うことも分かる。

何せ相手は単眼鬼である◦そして単眼鬼は単眼鬼であるという時点で、学者畑

だろうと何だろうと、もう問答無用ででかくて重くて強くて強くて、もうひとつ

おまけにとても強い◦殴つて気絶させるとか銃で脅していうことを聞かせるとか

薬で眠らせてこっそり運ぶとか、ひとが「拉致」の際に使う正攻法の類は、どれ

も通用しなそうな気がする。

いったい、どうい、っ手を使ったのだろう。

「此程、貴翼帝国の潜伏兵がこの街を徘ffl?している◦下手人は彼奴らかと評,しみ

もしたが、どうやら違う。帝国とはまた別、独立勢力の者が、目標たるマゴメダ

リを抱えたまま現在も遁走中だ」

いやな予感がした。

「あの」ティアットはノフトに組み付いたまま片手だけを挙げて「お話し中申し

訳ありません、第五師団のティアット•シバ•ィグナレオ上等相当兵です。質問

の許可をいただけないでしょうか」

ふん、と山羊頭が鼻を鳴らす。

「質問を許可しよう、精霊兵器」

「ありがとうございます。えつと……その犯人、もしかして、銀髪の徴無しだつ

たりしませんか? こ/っ、目つきが亜心くて、愛想はいいけど信用できない感じ

で」

まさかとは思つたけれど、その疑問から逃げることはできなかつた◦なにせ夕

ィミングが良すぎる。あいつが(たぶん)ここの浮遊島を訪れたのとほぼ時を同

じくして、正体不明の第三勢力の登場だとか、疑わずにはいられない。

「ぃゃ」

返答は早かった。

「下手人の素性は既に特定済みだ。徴無しというところまでは一致するが、それ

以外は、いまィグナレオの挙げた人物像と一致しない」

あ、なんだ、そうなんだ。ほっと、内心で胸を撫でおろした。

そして同時に、少しだけ残念に思った。もし犯人があいつなら、大手を振って

追いかけて、胸を張ってとっ捕まえることができたのに。

「んで?その話が、俺らが締め出される理由にどう繋がるってんだよ?」

「結論を急ぐな。……と言いたいところだが、話すべきことは既に尽きようとし

ている。貴殿らが知るべきはあとひとつきり。今特定済みと語ったばかりの、下

手人の名だ」

「回りくどい言い方は勘弁してくんね一か? 俺だって別に、気が長いわけ

じや」

「ナィグラ^~卜•アスタルトス」

さらつと、山羊頭はその名を告げた。

「............は?」

その場の全員で、当惑の声を上げた。

「ああ、いや◦喰人鬼が父親の名を姓として名乗るのは、未成年である間のみと

いぅ話であったな。今の名は忘れてくれ」

淡々と、山羊頭は、少しだけ修正されたその名を、改めて呼ぶ。

「下手人の名は、ナィグラート◦そしてそれがそのまま、貴殿らを調査の場に招

き入れることのできぬ理由だ。我らの稼業に情は禁物とはいえ、身内に縄を打た

せる手助けを要求するほど、鬼畜にはなれぬでな」

1•逃走者たち

さて。ここに、ナィグラートといぅ女がいる。

種族は喰人鬼。年は……まあ、二十は超えた。ぅん。

まだ少女であったころ、中央総合学術院に五年ほど在学し、基礎医術を始めと

する四つの資格免状を取得している。卒院後すぐにそれらの資格を駆使し、浮遊

大陸群最大商会の一つである、オルランドリ総合商会へと就職。当時の人生目標

であった「順風満帆なエリート人生」を途中までは順調に歩んでいた。

途中まで歩んだところで、ものの見事にドロップアウトした。

理由は、まあ、大したことではない。我慢できないことがあつて、見過ごせな

い事件があって、放っておけない子たちがいて、見捨てられない場所があって。

無視できないいろいろなものに向き直っていたら、いつの間にやらそぅいぅこと

になっていた。

別に、そのこと自体については、構わないのだ◦自分の選択に後悔はしていな

いし、その結果として行き着いた今の仕事は、間違いなく自分の天職だと思って

いる。仮に、かつて夢見たエリート人生に今から復帰できるぞと言われても、迷

わず首を横に振る。

だから、もちろん。

いま、武装した正体不明の一団に追われることになっている今も、彼女の中に

後晦はない。

tT

「ああもう、しつこい*」

雨上がりの裏路地を駆けている。

巨鬼系諸種族用の住居街は、それ以外の者たちの住む場所に比べ、あらゆるも

のが大きく造られている。長身のナィグラートにしてみれば、まるで小さな子供

の視界から世界を見ているような、なかなか面白みのある光景だ。

(アルミタくらいの背丈から街を見たら、こんな感じかしら……)

そんな状況ではないと頭でわかっていても、そんなことを考えてしまったりも

する。こんな状況でさえなければ、もう少しこの感覚を楽しんでいたかったとこ

ろだ。

「ナイちゃん、そつちは行き止まり^」

すぐ後ろを、景色のスケール感にぴったりと合った、単眼鬼の巨漢が走ってい

る。マゴメダリ•ブロントン。ナイグラートの学術院時代の先輩であり、仕事上

非常に世話になっている医者であり、そして現在進行形で生死を共にする逃走者

仲間である。

「もう。ナイちゃんはやめてって言ってるでしょ、先輩。もう子供じゃないんだ

から」

足を止めずに、首だけで振り返る。

街灯の照らす夜闇の中。追っ手の姿は直接見えてこそいないが、足音と声とは

変わらず迫ってきている。今から引き返したら、別の道に入る前に鉢合わせする

ことになるだろう。

「いい加減諦めてくれてもいいのに、勤勉ね」

「当たり前だょ!彼らが怠け者だったら浮遊大陸群が墜ちる!」

「もうこうなったら、逃げるのやめて、全員やっつけちゃうのはどうかしら......

ううん、それはダメね。あの量は食べきれないもの。一度用意した食材を食べき

れないのは、マナーに反しちゃう」

「思いとどまってくれて嬉しいょ! でもできれば、マナーだけじゃなくて、法

律とか道徳のことも思い出してほしかったな!」

そんな会話を続けつつも、状況は少しずつ悪くなっていく。

そもそも、単眼鬼の巨軀は、こういう逃走劇に向いていないのだ◦何せ、物陰

に隠れるとか足音を忍ばせるとかの手段がほぼ使えない。つまり、逃げ切るため

には、ひたすら走ってひたすら距離を開く くらいしか手がないのだ。

進行方向。

服装がばらばらな男たちが五人ばかり、次々と飛び出してきた◦服装だけを見

るなら、全員が旅行者風。このコルナデイルーチェにおいてそれはまったく珍し

いものではない。しかし、揃いの訓練を受けていると思しき動きと、手にした大

仰な火薬銃、そしてお世辞にも友好的とは言えそうにない視線とは、少なくとも

街を行く一般的な旅行者が備えているようなものではない。

(......回り込まれたР:)

足を止め、反射的に振り返る。

もちろん、それまでの追っ手も、変わらずにこちらを追ってきている◦見える

範囲で七人。駆け足で坂を登り、こちらとの距離を詰めつつある◦その手の中に

は、また違うタイプの、大げさなサイズの火薬銃。

火薬銃はその名の通り、火薬の爆発を利用して弾丸を飛ばすタイプの携行兵器

だQ特徴のひとつとして、サイズと威力が相関関係にある。つまり、大きな火薬

銃は、それだけ破壊力も大きい。片手で構えられるようなサイズの火薬銃です

ら、「ちよっと暗殺」くらいの用途には充分な威力が出る。それより大きなもの

を持ち出すということは、すなわち、それなりに本格的な市街戦を想定している

ということ。

(撃たれたら、さすがにちよっと痛そう)

喰人鬼は、隣人である諸種族のほとんどに比べ、ほんの少しだけ頑丈にできて

いる。「それなりに本格的な市街戦」程度の銃撃では大した傷を負わないし、そ

の傷もすぐに治る◦単眼鬼も頑丈さについては同様であり、つまり、彼らの攻撃

によって自分たちが傷つけられることについては、さほど心配はいらなそうだ

-と、ナィグラ^ —卜は考える。

前方の旅行者風の一団、後方の軍服な一団、双方がお互いのことに気づく。

無言で足を止め、距離を保つたままで、警戒もあらわに火薬銃を構える。

「あら……」

挟み撃ちされたのかとも思つたが、どうやら違うらしい。

二つの違う勢力が、共に予想していなかつた場所とタィミングで遭遇した、と

いうところだろうか。

「……あなたたちは、何?」

旅行者風の一団に尋ねてみたが、返事はない。

「そつちの人たちは、護翼軍なのよね?」

軍服の一団に尋ねてみたが、こちらも同じ。

「う-—<」

どちらかの陣を強引に突破、という選択肢はもちろんある◦ごくごくありふれ

た一般的な女である(と自称する)ナィグラートだが、荒事が苦手というわけで

はない。喰人鬼という種が備えた冗談めいた膂力と生命力は、訓練や鍛錬の上乗

せがなくとも、武装した兵士の十人程度ならば難なく蹴散らせる。

しかし、それで状況を打開できるというわけでもない。せっかくいま拮抗して

いる二勢力のバランスを崩すことが、どういう結果を生むのかもわからない。そ

れに、どちらの勢力も、いま見えているだけが追っ手の全てというわけではない

はずだ。時間をかければより多くの戦力を投入され、より整った戦術で追いつめ

られ、より逃げ場がなくなった状況で力尽きることになりかねない。

自分一人でなら多少の長期戦など苦にもならないという自信はあるが、同行者

たるこの単眼鬼は、でかい体のわりに気が優しい。体の怪我はなくとも、殴り合

い傷つけ合いといぅ場に身を置いているだけで、先に心が参ってしまいかねな

V

前後には活路がないと判断、左右を見る。

しかし、そこは足の長い橋の上だった。左右のどちらを見ても、低い鉄造りの

襴干と、その遥か下に涸れた大水路跡が走っているのが見えるだけ。

「ナィグラ-—卜-」

軍服の一人が、距離を保ったままで、呼びかけてきた。

「え私?」

こちらの素性を調べられている。いつの間に。

「お前には要人拉致の現行犯、おょび複数の要人暗殺の嫌疑がかかっている!

すぐに抵抗をやめ、博士を解放しろ!」

Г拉......致?え?私が?」

一瞬、何を言われたのか、わからなかつた。

「何よそれ!違うでしよ、無理やり先輩を連れていこうとしたのはあなたたち

じゃない!そんな、怖い銃まで持ち出して!」

文句を返したが、さすがに相手も、いちいち返事をくれるほど愛想よくはな

V

代わりにというわけではないだろうが、全員でにじるように距離を詰めてき

た。

「だいたい、なんで護翼軍が先輩を追いかけてるのよ!浮遊大陸群を守るのが

あなたたちの仕事でしよだつたらもつと危ないひとたちとか捕まえに行きな

さいよ--」

その場の誰も——背後のマゴメダリすら——何も言わない。そのことに苛立

ち、ナィグラ丨^^はさらに声を荒らげる。

「そっちのあんたたちも!先輩の何が目的なの!言っとくけどこのひと、あ

んまりお金持ってないんだから!いいお給料もらってるのに、かたっぱしから

学術書に遣ったり、学術院再入学の費用に充てちゃったりするんだから!」

「やめてナィちゃん普通に恥ずかしい」

乙女のようにうつむいたマゴメダリに、袖を引かれた。

「僕が行けば、それでいい。いや、それが一番いいんだ」

「そういう寝言はあとで聞きます」

「真面目な話なんだ◦僕の身柄さえ押さえられれば、この場は丸く収まる。君に

対する疑いも晴らせるだろう。そうすれば、」

「私の用寧」

マゴメダリの早口を、途中で遮った。

「私の用事、まだ先輩に言ってなぃ〇別に私、追ぃかけっこだけのために11番ま

で来たわけじやないの◦何が何でも先輩に聞いてもらわないといけないお願いが

「無理だ、聞けないょ」

「——まだ何も言ってない」

「聞かなくてもわかる。だから、無理だと言っているんだ。妖精を調整するとい

うのは、君が思っているょりもずっと危険な行為なんだ◦いや、そのくらいのこ

と、君ならとつくに気づいてるんだろう?」

もちろん気づいてる、という言葉をぐっと飲み込んだ。

黄金妖精は浮遊大陸群の各地で発生する◦その中からしっかりとした体を持つ

に至った者たちは、護翼軍にょって保護され、68番浮遊島の妖精倉庫へ運ばれ

る。そこで飼育されたそれらは、成体妖精となれる年齢となった際に、今度はこ

の11番浮遊島に運ばれ、成体化の調整を受ける〇その後は各師団が引き取り管理

下で運用することになるが、慣例的には再び68番浮遊島に戻され、任務のない間

は幼体たちとともに管理されることとなる。

このシステムには、いくつかの不自然な点がある。

その中のひとつが、妖精の調整の行ゎれる場所が11番浮遊島に限定されている

こと。

普通に考ぇれば、調整は、ぁる程度68番浮遊島の近くで行ゎれたほぅが効率が

良いはずだ〇特殊な施設が必要だといぅ話であっても、その施設とやらを68番の

近くに造るなり移すなり、あるいは妖精倉庫自体を11番の近くに移築するなりし

たほうがいい。いや、本当に浮遊大陸群の未来を憂うならば、そうするべきだ。

これは、浮遊大陸群の浮沈を背負っていた、黄金妖精たちの話なのだから。

実際にそういうことになっていない理由について、もちろん簡単な説明は受け

ているし、納得もしている◦妖精兵器というシステム自体について護翼軍やオル

ランドリ総合商会の中で意見が割れており、合理的な手を常に採れるわけではな

い。そのあたりの事情は理解している。理解している上で、感じ取っている。こ

の辺りの話には、まだ見えていない裏があるはずだと。

気づいていて、分かっていて、けれど。

「だから、ナィちやん-」

「先輩は、わかってない」

そんなことは、とつくに承知しているのだ。

気づいていて、分かっていて、その上で。自分はここに来たのだ。

「何にも、わかってない!」

むんずと。単眼鬼の襟もとを、ひっつかんだ。

そのまま、引っこ抜くよぅにして、持ち上げる。

高々と、空へと掲げる。

単純な重量だけで言えば、小型の自走車くらいはあるだろぅか。いくら喰人鬼

が剛腕を誇るとはいえ、それなりに辛い。しかし、この程度で音をあげるわけに

はいかない。今の自分は、もっともっと重いものを背負って、ここにいるのだか

ら0

「わ、ちよ、ちよつとР:」

慌てる声。ついでに、軍人たちと旅行者風連中も、揃って動揺する◦いったい

この喰人鬼は何をする気なんだと、その場の全員の反応が遅れる。

「や、やめてくれナィちゃん、高いところ、苦手なんだ」

一人、どうやらこれから起きることを正確に予想できているっぽい声もあった

けれど、

「ナィちゃんはやめてって言ってるでしょ、先輩」

ふんっ、

声には出さずに、気合いを一閃◦重い荷物を、投げ捨てた。

前にでもなく、後ろにでもなく。襴干を越えた、横の方へ。

「私、もう、子供じゃないの」

うわああああああああ◦鼓膜に響くマゴメダリの悲鳴を聞き流しながら、自分

自身もひょいと跳躍。スヵートの裾を押さえて、宙へと身を躍らせる。

全身を包む浮遊感◦ぞわりと背筋が冷える。目をつぶりたくなるのを我慢し

て、数秒の悪寒に耐える。

姿勢を正し、足もとから着地◦轟音とともに、かつて大水路であった場所の石

豊に、大きな穴を開ける◦じんじんと痺れを訴える足に活を入れると、すぐ隣で

しり たた

目を回すマゴメダリの尻を叩き、

「ほら、行きましよ、先輩」

引きずるように手を引いて、再び走り出す。

背後から散発的な銃声が聞こえた、と思った次の瞬間には、「馬鹿、やめ

ろ!」という怒声とともに止んだ。護翼軍と謎の一団、どっちの陣営の声なのか

はわからないけれど、とりあえずはよかつたと思う。当たつたところで大して痛

くはなかっただろうけど、よそ行きの服に穴が開くのは嫌だったから。

これだけ離れれば、もう大丈夫だろう……そう思えるだけの距離を稼いだ後、

物陰で、休憩することにした。

「なんでこんなことになつちやつたのかしら」

木箱に腰かけて、ナイグラートはぽつりつぶやいた。

「それぼやく権利ないよね?ナイちやんにだけはそれ言う権利ないよね?」

手近なレンガ壁に背もたれ、マゴメダリが首を振ったQ

「だ一か一ら一。ナイちやんはやめてってば」

г……そう言うけどね◦僕から見れば、いまの君も、やっぱり子供だよ◦実際の

年齢もそうだし、こういう無茶を平気でやつちゃうところもさ」

単眼鬼の寿命はとても長い。軽く百年二百年の時を生きてしまうような彼等の

目から見れば、確かに他のほとんどの種族の者が幼く見えたとしても、確かに、

仕方が無いのかもしれない。けれど、

「それでもよ。今回の私は、大事な子供たちのためにここにいるんだもの。自分

も子供のままというわけにはいかないわ」

譲れないものは、譲れないのだ◦力強く、そう答える。

その決意を理解してくれたか、マゴメダリは肩をすくめると、

「才^~ケ^~、わかつたよナィグラ^卜。とりあえず僕の負けだ」

ひとまず、折れてくれたらしい。

それでは次のステップだ。ナィグラートは少しだけ息を整えてから、

「アルミタが、倒れたの」

不意打ちのように、本題を切り出した。

アルミタは、現在妖精倉庫にいる幼体妖精たちの中の最年長である少女だ◦も

う一年以上前に成体化の兆しである「夢」を見て、しかしその後、成体妖精とな

るための調整を施されずに今日まで来てしまつた。

「一日のほとんどを、夢をみて過ごしてる。もらつてた薬も、もう気休めにもな

らない。ユーディアとマシャはまだ大丈夫。だけど、少しずつ、調子を崩す日が

増えてきてる」

「……それが、妖精の本来の寿命だよ。あの子たちの時は大人になる前に尽き

る、それがあの子たちなりに正しく生きた証、自然なことなんだ」

自分に言い聞かせるようなマゴメダリの言葉に、ナイグラ丨-は唇を尖らせ、

「邪道上等、使える手なら何でも使って不_然に生命を引き延ばすのが医者の役

目だ、って前に先輩言ってたじやない」

г............確かに言った気がするし、いかにも僕が言いそぅなことだ

ね............」

「自分の言つたことの責任くらい、ちやんととるべきだと思ぅの」

「はは、長生きなんてするもんじやないな、自分で巻いた鎖がどんどん重くな

る」

軽口めいた弱音とともに、マゴメダリが空を仰ぐ——と、

「......聞こえた?」

「ええ」

すぐに表情を引き締め、顔を見合わせた。

慌ただしく走る、十人を超える数の足音。今はまだ離れているが、おそらく

へだ

は、そう時を隔てずにここにまで至るだろう。

「大変、逃げなきゃ」

立ち上がる。が、隣の単眼鬼が動かない。

「そうだね◦君は逃げた方がいい、ナィグラート。そうすれば、少なくとも、倉

庫の子供たちの全員から母親を奪うようなことにだけはならない。最悪の中の最

悪の結末だけは避けられる-」

「って、もう!なんで当たり前みたいな顔して残ろうとするのよ!あなたも

一緒に行くの、話はまだ終わってないんだから!」

「そうもいかないだろう。……久しぶりに会ったんだ、確かにもう少しお喋りも

したかった気持ちもある。けれど、この辺りの道は僕もよく知らないんだ。逃げ

回ろうとしてもすぐに捕まる。だつたら、君だけでも逃げ延びて——」

「あ一もう、頑固もの!さつきから全然話が前に進んでないじゃないのよ

う*」

かか

頭を抱えそうになる。と、

「え?」

くいくいと、袖を引かれる感触。見下ろす。

いつの間にやら、一人の女の子がそこにいた。

黒いフード付きのマント。背は低く、また、フードの奥に見えている顔立ちも

幼い……おそらく、十をいくつも超えていないだろう。マントの裾からЩく手に

は、ふわふわと柔らかそうな黒い毛が生えている——黒猫系の猫徴種、だろう

か。それにしては、やや徴が薄いような気もするが。

「あなたは……」

論った。

知り合いではない、と思う。もっとも、このくらいの年の子は、ほんの数年

会っていないだけでぐんぐん育って、姿も味も変わってしまう◦なので初対面だ

という確信は持てなかったし、それはこの際、大して重要でもなかった。

ょり重要なこと、つまり話しかけてきた要件については、先方から切り出して

くれた。

「逃げ道……」

人生に倦み疲れた老婆のょうな、低く濁ったしゃがれ声。

その声に一度意表を衝かれ、次いで、その言葉の内容に驚かされた。

「......こっち、です」

「え? ちよ、ちよつと待つて、どうして」

袖を引かれるが、そのまま素直についていくわけにもいかない。どこの誰とも

知れない子供に、おいそれとついていくわけにはいかない。

それに、うかつに関わらせて、あの物騒な追っ手たちに目をつけられたらもう

目もあてられない。ちよっと丈夫な自分たちとは違い、猫徴種(?)は銃弾に

そんなに強くない。場合によってはあっさり死ぬ。

「先輩、お知り合いですか」

「ぃゃ」

事情を把握できそうな可能性その1は、あっさりと否定された。

「連れてきてと、頼まれまし、た」

このままでは信用が得られないと判断したのだろう。

どこか話しにくそぅに、嗄れた声が自分について語りだす。

「連れて、って……誰に?」

心の奥底だけでわずかに警戒しながら、ナィグラートは尋ねた。自分たちは追

われる身なのだ。信用できない者についていくわけにはいかない。

г わ i、dJ:1;、ハ」

「......え?一

「この名前を出せば、二人とも信用してくれるって、オデットさん、言ってたま

した」

二人、顔を見合わせる。

それは、二人ともにとって、知った名だった。

そして、この世で一番信用できない名だった。

2•駆ける少年、寄り添ぅ少女

「やっぱり、焼き尽くしてしまわない?大丈夫、証拠は全部消すから」

「やめて」

この会話を、何度繰り返したか。

めちゃくちゃ追われた。

めちゃくちゃ走つた。

ちょつとだけ撃たれた(当たらなかつた)。

ついには狭い路地に追いつめられかけたところで、ギギルから話を聞いていた

といぅ豚面種の商家に助けられた。

豚面種の住居と聞くと、不潔で狭苦しいィメージを持つ者が多い。

しかしこれは、おおむね誤解だと言っていい。一般的な豚面種の家庭は、基本

的にとても清潔だ。そこらの獣人のそれのほうが、季節の抜け毛などが散らばり

やすい分、汚れやすいと言ってもいいほどに。

この話をすると、「だってあいつら、泥で体を洗うんだろ」と反論する獣人も

いる。確かにその言葉に誤りはなく、彼らにはそういう風習がある◦古代の地上

においては、腐汁や汚水に身を浸していたという記録もある。だが現代の浮遊島

においては、その文化は文字通りの意味で洗練された◦上質な粘土を高額な香油

で溶いた、もうこれ泥って呼んじやいけないんじやなかろうかという琥珀色の液

体が、今の彼らの風呂桶を満たしている。

(——まあ、お金のある家に限るんだろうけどさ……)

通された豪華な客間で一息つきつつ、そんなことを考える。

ギギルと話したあの部屋に負けず劣らず、悪趣味なまでに金のかかった部屋

だ。あちこちにごてごてと飾られた金細工が、照明を照り返して目に痛い。

「あの旦那が身内と呼んだんダ、あんたらはもうこの街の家族だョ」

とい、っのが、ここの店主だとい、っ豚面種の言葉だった。ちなみにギギルと顔の

見分けはつかなかった

豚面種は数が多い。そして、身内とのつながりが強い(他種族との折り合いが

悪いということでもあるが)ため、それぞれの浮遊島、それぞれの都市の中で集

まり共同体を作って暮らす傾向がある◦豚面種街とでも言おうそれらは、それ自

体が都市、あるいは国家のようなものだ。外の者は、そう簡単にはちよっかいを

出せない。

г徴無しだからって気にすることはなィ、我が家と思ってくレ」

「ありがたく、お言葉に甘えます」

「ブフォフ、まだまだ言葉が固いナ?」

奇妙な笑い声を聞き流しつつ、出された紅茶を口に含む。

г……なんだったラ、ゥチの娘に子を残してってくれても構わんゾ」

ぶふ、^。

ラキシュと並んで、口の中のものを噴き出した。

多産の種族によくある話ではあるが、豚面種には番という風習がない。雄と雌

が適当に繋がり、適当に子を産み、そして共同体全体で育てる◦だから、他の種

族の者にとっては倫理的にどうなんだと思えるようなこういう提案も、飛び出し

てくることがある。

t

実際に、その娘とやらを紹介された。

申し出はその場で丁重に断ったが、その後、ラキシュに少々冷たい目で見られ

た。

一肌のきれいな子だったわね?」

じっとりとした視線と、切れ味鋭いナィフのような士尸0

いや確かに、つるんとした薄紅色の肌は、ごくごく普通の意味できれいだった

けど。

г徴無し嫌いのあなたにぴったりだったじゃない」

いや待ってほしい。確かに自分は徴無し嫌いだ、しかし別に、徴無しじゃなけ

れば何でもオッケーなんて言った覚えはないわけで。

「つまり種族と関係なく、あの子が個人的に好みだったつてことかしら?」

ああもう、なかなか機嫌が直らない◦いやそもそもなんで機嫌を悪くしている

のか、そこからして分からない。今のラキシュは確かにフエオドールにべつたり

ぞん

れんあ:

依存しているが、ラキシュ自身はそれを恋愛感情といぅ形で捉えてなどいないは

ずだ◦先日に衝突したティアットを指して「恋人なんでしょ?」などと言つてい

た時も、怒りや嫉妬などを見せたりはしなかつたのに。

「ふん」

ああもう。どうしろつていうんだ。

居心地が悪かったので、トィレへと退散した。

用を済ませ、手を洗う◦一人きりになってようやく、いろいろと真面目なこと

を考えることができるようになつてきた。

(真面目にいろいろと考えないといけない状況、なんだよな)

マゴメダリ•ブロントン博士 ◦単眼鬼の医者。「黄金妖精兵の調整」の事情に

ついて知る数少ない者の一人であり、おそらくは、現場での具体的な手順まで知

悉している唯一の存在。

(僕らとは別に、彼のことを追っている組織が複数ある◦それだけならまだし

も、そのうちひとつはどうやら護翼軍……)

博士は、どこにいるのだろうか。一番単純に考えるなら、護翼軍に保護されて

いるはずだ◦しかし自分たちを先ほど追いかけまわしていた護翼軍兵士たちのし

つこさと人数などを考え合わせると、違和感が浮き出てくる。

あれは、そう、護翼軍も目当ての博士に逃げ回られて街中をうろついていたの

だと考えれば、しっくりくる。仮にそうだとするなら、先ほどまでに見てきたも

のから、いったいどういう経緯があればそういう展開がありうるのかの判断がで

きるはず。

(ざっくり考えて、パターンは二種類◦博士が護翼軍を裏切ったか、あるいは護

翼軍が博士を裏切ったか……いやこれは早計か、不確定の要素が多すぎる)

そんなことを考えながらハンカチをしまい、廊下に出て少し歩いて、

——豪奢なつくりの屋敷には、たまにあることだが。

廊下の角の壁に、大きな鏡が掛けられていた。

「……ち」

舌打ちからわずかに遅れて、頭痛が襲ってきた。

鏡というものは、その手前にあるものを忠実に再現して映し出すものだ。だか

ら白い壁やら白い絨毯やらまばゆい晶石灯やら、そういった背景のあれこれにつ

いては文字通りの鏡映し、向こうとこちらで同じものが見えている。

違いは、ただひとつ。鏡の向こうに、フェォドール•ジェスマンの姿はない。

そこにあるのは、得体の知れない、黒髪黒目の徴無しの青年。

笑っている。

けけけ、という声が今にも聞こえてきそうな、そんな笑い顔。

思わず自分の口元に手を当てて確認してしまった。フエオドールは笑っていな

い。笑っているのは、鏡の中のこいつだけ。

「何がおかしいんだよ」

『何——かし—ん——』

途切れ途切れではあるが、声が聞こえたような気がした。

けれど、もちろんそれは幻聴だ。あるいは、フエオドール自身が口にした言葉

の半端な反響だ。壁に向かっての独り言と、何ら変わりはしない。

「ふざけてるのか?」

『-けて-か?』

「お前は、結局、何なんだ」

『お——、—局、何—んI』

まったく、なんて滑稽なザマだ。

やけになって、自分自身のその問いかけに、答えてみよ、っと思い立つ。

「僕は、黄金妖精たちの敵対者だ」

『俺は、浮遊大陸群の破壊者だ』

ああ、やっぱりだ、鏡は鏡であり、それ以上でもそれ以下でもない。どうせ会

話が成立するわけではないのだから、こんなことには何の意味もないのだと……

-え?

「ぉ、ぉいР:」

おかしいと察して鏡にとりつくも、その向こうには、もう、あの黒い青年の姿

はない。銀髪紫眼の少年が、追いつめられたような余裕のない顔をして、こちら

をЩき込んでいるだけだ。

今のは、何だ◦あいつは何を言っていた。それは、どういう意味のある言葉

だった。

「何してるの」

鏡を睨んで思索に耽ろうとしたところに、声をかけられた。廊下の向こう、部

屋の扉を小さく開いて、ラキシュが顔を視かせている。

「いや……髪に、ごみがついていたんだ」

「ふ/っん」

信じたのか信じていないのか、それともどうでもいいのか。鼻で返事をしたラ

キシュは、小さく手招きする。

「トィレが済んだなら、いらっしゃい。情報が、集まったんですって」

辺りに住む豚面種たちに、街中を走り回る者たちの動きを追ってもらった。こ

のょうなチームヮークがものを言うタィプの集団行動において、彼らは抜群の能

力を発揮する。正確かつ大量の情報が、すぐに届けられた。

「地図は用意してもらえましたか」

「こちらダ」

机の上に街の地図を広げ、届いた報告を細かな駒の配置という形で載せてゆ

ある瞬間だけを切り取った一つ一つの情報には、さほどの価値がない。けれど

それらを束ねていくことで、時間の流れがおぼろげながらに見えてくる。

「これは」

そして気づいた。自分たちのほかにも、巨鬼住居街を逃げ回っている者がい

る。しかも、そちらの追っ手は複数の勢力が交ざったもののようだと。

г……見つけた」

この逃走者が二人組、その片方がどうやら単眼鬼であるらしいというところま

では、報告を聞いて理解できた。まさかこのタィミングとこの展開、完全に無関

係ということはありえないだろう◦おそらくは、マゴメダリ•ブロントンその

人。

二人組というところが気にはかかるが、この情報自体が、そもそもが大雑把な

予想と推測の積み重ねでしかないのだ。細かいところにこだわってみても仕方が

ない。あとは、実際にこの目で事実を確かめるまで。

「行こう」

勢いをつけて、立ち上がる。気になることは数多い。解決しなければならない

問題は山のようだ。けれど今は、心の中の優先順位を大事にしていきたい。

マゴメダリ•ブロントンとの交渉は、今のフヱオドールにとって、最優先事項

のひとつだ◦それを後回しにするくらいなら、この体が痛んでいることとか、こ

の頭に妙なものが住み着いたこととかのことは、ひとまず忘れてしまおう。

г……何よ」

о ь

我に返る◦無意識のうちに、ラキシュの顔を見つめていた。

「何でもな——あ、いや、違うな」視線を逸らしてから、「ちよっと、見惚れて

た」

「はいはい、わかりやすいお世辞をありがとう」

フエオドールがそうあれと望んだとおり、照れることも特別に意識することも

なく。あつさりとした返事とともに、ラキシュは小さく肩をすくめた。

3 オデット•グンダカ^^ルとい、っ女

案内されたのは、川沿いにある大きな屋敷の裏口だった。戸がマゴメダリには

やや小さかったが、身を屈め肩を傾ければ、なんとか通れないこともない。

「おじやまします......」

先導する女の子についていく形で、台所のょうな部屋を抜け、客間へ向かう。

JぱソЛТ謂,1人のき

長い銀髪に紫色の瞳。優しげな微笑みを口元に湛えている。

女はこちらの姿を認めると、ソファから立ち上がり、飛びつくょうにして黒

ローブの少女に抱き着いた。

「リツタちやん、ありがと一* —」

「才、オデットさん、くるし、です......」

гごめんなさいね、変なお使い頼んじやつて。危なくなかつた?怖くなか

た? へんなひとに声かけられたりしなかつた?」

「ももう*」

女の子は照れるように身をよじり、女の腕の中から脱出すると、そのまま駆け

るようにして部屋を出ていつた。

その背中を見送つていた女は、しばらくしてからくるりと振り返り、

「逃げられちやつた」

舌を出して笑つた。

「......ええと」

「とても久しぶり、二人とも。元気そうで嬉しいわ」

やわらかい笑顔。

「ええと、今のは、親戚の子。ほんとは自分であなたたちを迎えに行きたかった

んだけど、それだといろいろと都合が悪かったから、代わりに行ってもらった

の。というか、いきなり私が顔を出したら、二人とも素直についてきてなんてく

れなかったでしょう?」

いったいどういう後ろめたさにせかされているというのか。早口で、まくした

てるようにそんなことを言う。

г......ジヱスマン先輩」

「あ、ごめんなさい。実は私、もうジェスマンじやないの。オデット•グンダ

カール。だいぶ前に故郷のほうで結婚して、姓が変わったの」

「え、そうなのIV:」

驚いた。

オデット•ジェスマン改め、オデット•グンダカール。堕鬼種。ナィグラート

の学術院時代の知人の一人で、有名人の一人だった。一見すると、ただの……と

いうのも妙な話だが……育ちのよさそうなおしとやかな女性にしか見えない。し

かしその実は、当時の学生界隈の中では魔女や魔王などとさんざんな呼び名をつ

けられていた(しかもそのどれにも決して名前負けしていなかった)、性格のひ

ねくれまがった性悪女である。

息を吸うようにして人を騙し、息を吐くようにして人をひっかける◦表面上の

優しさやら大人しさやらに騙され、どれだけの学友たちが涙を吞むことになった

やら。

そんな彼女にも、隣で支え続けようなどと考えてくれる酔狂な男性が現れたな

ら。そして、人並みの幸せが訪れたというなら。それは、まあ、喜んでもよいこ

となのではないだろうか。そう思い、

「それはおめでとうござ-」

「ちなみに、五年前に先立たれちやつた」

「あう」

素直に口にしようとした祝いの言葉を、途中で撃墜された。めでたい話を喜ぶ

べきなのか、それがもう失われているということを悲しめばいいのか、一瞬の混

乱がナィグラートの思考を止めて、そして次の瞬間にはその混乱こそがオデット

の狙いだと気づく。

「——あの◦もしかしてジェス……オデット先輩、私のこと、おもちやにして遊

んでいない?」

「ふふ、正丨解っ」

楽しそうに、そして意地悪く、オデットは笑う。

「え一と、最後に会ってから十三年くらい? 身体はずいぶん大きくなったみた

いだけど、やっぱり貴女の反応は変わらず可愛いのね。ナィグラート•アスタル

トス」

「もう!私だって、もう大人なの!お父さんの名前つけて呼ぶの禁止!」

ふと、先ほどから妙に静かなマゴメダリのほうを振り返ると、

「グンダカ^ル、だつて......?」

何かを考えるようにその名をつぶやいていた。

どうかしたんですか、と声をかけようとしたところで、

これоき

「そぅだ、お茶、いる? 输木産の二十番代。好きだったわよね、ナィグラ^^

卜」

「あ、ぅん」

絶妙のタィミングで、注意を引き戻された。

г......ひとの紅茶の好みとか、よく覚えてますね」

「だって堕鬼種だもの」

筒形焜炉に薬缶を載せる。

「人をだますためにはね、人を理解しなきやいけないの◦何が好きなのか、何が

嫌いなのか、何を許せないのか、何を譲れないのか——」

火の具合を確かめながら、オデットは語る。

「『誰でも騙せる万能の騙し文句』なんてものはない。全ての欺瞞は、それぞれ

の相手に対するオーダーメィド。それが、心を喰らう一族にとっての矜持みたい

なもの」

なるほど、と思うところがある。

彼女たち堕鬼種が人の心を喰らうというなら、自分たち喰人鬼は人の肉を食

う。そして、全ての肉に使える万能の調理法や調味料などというものはない。目

の前にある肉を理解し、それぞれの相手に対して最高の調理を行うというのは、

喰人鬼にとっての矜持のようなものだ。

同じようなものではないかと言われれば、それなりに納得せずにはいられな

V

г……というのも、嘘なのだけど」

こら。ちよつと。納得を返して。

「でも、ナイグラートになら信じてもらえると思って吐いた噓。ね? 噓ってい

つか

うのはこんなふうに、相手のことをしっかり掘んでからぶつけるの◦好みとか考

え方とか感じ方とかを覚えるのは、その初歩の初歩。わかってもらえた?」

「......ええ、とつてもよく」

この人、苦手だ。

ナイグラートは内心で涙目になりながら、そう強く思う。

ふと、アイセアのことを思い出した。いまを生きている成体妖精兵の中で、最

年長の一人。いつも飄々としているところや、あけすけに喋りながらもどこか本

音を感じさせない雰囲気など、あの子とオデットの間には、いくつかの共通点め

いたものを感じる。

あの子なら、もしかして、この嘘吐き魔人とも渡り合えたりするだろうか。

……いや、下手に会わせたら、結託してこっちを泣かせに来るかもしれないけれ

ど。

そんなばかばかしいことを考えていたら。

「——質問だ、オデット•グンダカール」

低く、厳しい声を聞いた。

誰の、と確かめるまでもない。ソファのすぐ隣。座れる椅子がないからとカー

ペットの上に直接尻を下ろしていた巨漢、マゴメダリ•ブロントン。

「なあに?」

「同窓会の通知を受け取った覚えも、もちろん出した覚えもない。ならば、ここ

に我々が集ぅことは不自然だ。いったい君は、なぜここにいる。……いや、」

単眼を細め、しばし言葉を探してから、

「君は、何者として、ここにいる」

どういう意味の質問だろう、とナィグラートは思う。わざわざ言い換える必要

があるほど、内容が変わったようには思えない。

オデットは、くすくすと笑う。

「さすがね、ブロントン先生」

ぴ、と袖口から、一枚の紙片を出す。

マゴメダリの顔色が、はっきりと変わる。

「......それを、どこで?」

「もちろん、先生の私邸で◦ごめんなさい、ちよっと散らかしちやった」オデッ

卜は肩をすくめて、「でも仕方がなかったのよ。競争だったんだもの。私たちが

一歩早かったけど、もう少し時間をかけてたら、護翼軍が代わりに見つけてたで

しよう」

目の前の二人が何の話をしているのか、ナィグラートにはわからない。

「先輩……?」

「私の話の前に、二人の現状について確認しましようか」

オデットはソファに腰を下ろす。

「追っ手は二種類◦片方は護翼軍◦もう片方は今のところ正体不明。敵は双方と

もにブロントン先生を捕縛しようと動いている。理由はブロントン先生の持つ特

殊な精霊の調整法に絡んだものだと推測される。……うん、とりあえず、こんな

感じかしら?」

ナィグラ^—卜は、少し考えてから領いた。どういうことかは分からないが、才

デットの言葉は、現在時点での自分の現状認識と、ほとんど一致している。

マゴメダリは、まっすぐに単眼をオデットに向けたまま、黙して何とも答えな

V

「先生。黙ってないで。いまの推測、何点くれますか?」

ゆっくりと、マゴメダリは口を開いた。

「僕だって模範解答を知ってるわけじゃない。採点はできないょ」

なんだか嘘っぽいなとナィグラートは思った。

そして、自分にすらそんなことを見抜かれてしまぅのなら、その嘘は、目の前

のこの堕鬼種にはまったく通用しないだろぅなとも。

「ものは提案なんだけど」

オデットはわずかに身を前に乗り出して、

「その調整法、売り払ってみるつもりはない?」

マゴメダリは首を横に振る。

「エルビスの残党にかい?」

-え0

ナィグラ^—卜の思考が、止まった。

「うちの旦那のこと、知ってたの?」

「有名人だったからね◦エルビス国防空軍の副団長◦あの一連の事変の首謀者と

して、全ての罪を背負わされて処刑された」

「そうそう。そのグンダカール。すごい人なのよ。組織の頂点に立って悪いこと

して、憎まれて処刑される◦それって本来堕鬼種の専売特許みたいな生き方なの

に、うちの血縁の誰より額眼種のあの人のほうが派手にやっちゃって」

くすりと笑って、

「それで、先生。私が、彼の遺志を継いでると思ったわけね?」

「その可能性は考えないといけないと思ったよ」

「ごもっとも◦でも安心して大丈夫◦確かに私の故郷はエルビスだけど、それは

それ。私は私だし、どこかの組織に所属しているわけでもない。残党って言われ

てる人たちとも、そりや顔くらいは知ってるけど、特に繋がりはないわ……」

ただ、とオデットは一拍を置く。

きよくていこく

「……それとは別に、いまちょっと、貴翼帝国のえらい人とね、約束してるの。

浮遊大陸群守りの要、遺跡兵装群と適合精霊の秘密を持ち帰る、ってね」

「え」

それは、つまり、どういう意味の言葉になるのか。

「もうひとつ言うと、さっきまで二人を追いかけてた陣営のうち、護翼軍じやな

いほうが私の同僚ね。あなたたちにとって正体不明だったほう。あ、心配しない

で、彼等にはここの場所のこと教えてないから◦誰を騙す場合にもまず味方か

ら、つてね」

なんてことを、罪悪感のかけらも感じられない顔で、しれっと言うのか。

呆れる気持ちすら、今さら湧いてこない。

「だから実は、さっきの『正体不明』って言ってた推測、ほんとは答えを知って

るの。貴翼帝国の目的は、マゴメダリ•ブロントン、あなたを技術顧問として迎

え入れることよ。それには力押しだけでは難しいだろうと、こうして私も送り込

まれた」

「断るよ」

「……少しは考えてもらってもいいと思うのだけど。少なくとも、今の護翼軍よ

りは好待遇で迎えてもらえるはずよ?」

ああ、そういえば——ナィグラートの頭に、今さらの疑問がよぎる。

そもそもマゴメダリ•ブロントン博士は、護翼軍とオルランドリ総合商会の協

力者だ。だというのに、なぜ今さら、護翼軍の兵士が彼を追っていたのだろう?

火薬銃を博士に突きつけてまで、強行に任務を遂行しようとしたのは、いった

いなぜ?

「そのメモを読んだのなら、僕がこう答える理由も、もう、知ってるんだろ

う?」

苦笑交じりの声で、マゴメダリは言う。

「僕らのやっている妖精の調整には、本来必要ない手間を、大量に加えてある。

だから、やろうと思えば、大幅な簡略化ができてしまう◦より簡単に、より早

く、より強力な成体妖精兵を創り出すことができる◦手順だけを知ってしまえ

ば、誰だってそちらの道を選ぶだろう。僕ら以外の誰かが調整の手段を知るとい

うことは、つまりそういうことだ」

ゆっくりと——大げさに嘆くように、天井を仰ぐ。それは、単眼鬼の体格に比

してあまりに低い。

「けれどそれは、それだけは、決して許されないことなんだ。もう二度と、そう

いう成体妖精は生み出されてはいけないんだ」

「そう。そこがわからないの。あなたほどの人が、今さら何にそこまで怯えてい

るのか。『本来必要ない手間』とやらをかけてまで、いったいどういう予防線を

張っていたのか。その手間のかかっていない成体妖精兵に、いったいどういう問

題があるのか」

マゴメダリは、薄く笑う。

「もう、この言葉には行き着いているかな。モウルネンの夜、だよ」

、Г\

祈るように、その言葉を口にする。

「……聞いたことのない言葉、だけど」

「ならば、そのまま知らずにいたほうがいい。僕はこれでも、長生きしてるから

ね。記録に残されていない光景も、この目と頭で記憶してる。僕だけじやない。

妖精の調整について知識を持つ六人は、その全員が共犯者だ。ずっとあの夜の記

憶に怯え続けていた——」

「——その話、僕も聞かせてもらっていいですか?」

いつの間に、そこへと現れたとい、っのか。

その場の全員の視線の向かう先、一人の少年が立っている。

短い銀髪に、黒いスーツ姿◦色の入った眼鏡をかけていて、瞳の色は見えな

V

年はたぶん、十五くらい。例によって、ナイグラートの知らない人物だった。

(テイアツトやラキシュたちと同じくらい、かしら……)

ここにいない、そしてもう二度と会えないはずの妖精たちのことを思い出し、

ナイグラ^卜の胸が小さく締め付けられる。と、

「フェオ......ド丨ル......?」

自分の隣で、あのオデット•ジェスマンじゃなかったグンダカールが、信じら

れないという顔でその少年を見ている。

いつも泰然と構え、すべてを見通し掌握しているというような顔をしているこ

の女のそんな表情を、少なくともナイグラ^~卜は初めて見た。

「姉さんのそんな顔、初めて見たよ◦ここまで苦労して迪り着いた甲斐があっ

たってものだね」

そのオデット——姉と言ったか——の表情を見て気をよくしたのか、少年は大

仰に両手を広げると、舞台俳優のように一礼。

「お二人には、初めまして。そこのオデット•グンダカールの実弟、フェオドー

ル•ジェスマンというものです」

格好をつけ、満面の笑顔を浮かべて、英雄物語でも吟じるかのように朗々と、

「この度は-」

Kf、、、、、、、、

筒形焜炉の薬缶が、甲高く、間の抜けた音をたてた。

少年の言葉が、遮られた。

気まずい沈黙が、その場に満ちた。

「あ-~、つと......」

どことなく気が抜けたように、オデットが尋ねた。

「......あなたもお茶、飲む?ft木産の二十三番、淹れるところなんだけど」

「あ、、つん、もらうよ」

完全に気の抜けてしまつたらしい少年が、ぼんやりした顔で、素直にうなずい

た。

t

部屋の中の誰も、気づかなかった。

扉をひとつ隔てた隣の部屋で、一人の少女が、小刻みに震えている。

黒いローブで全身をくるみこんで。フードで隠した顔を、さらに下に向けて。

「フエオ......ドー......ル......?」

熱に浮かされてでもいるように、少年の名を、うわごとのように眩く。

「うそ……本当に……生きて……た……?」

4•おしやれな街でのおしやれな間食

おしやれな街では、お菓子類までおしやれなものである。

雪のよ、っに白いヨ^~グルトケ^キに、黄色いシロッフと緑色のミント。

なんといぅか、芸術品っぽい。スプーンを突き立てる瞬間、なにか大切なもの

こつ フ

を壊してしまつたような、得体の知れない罪悪感まで沸き上がつてくる。ぷるぷ

ると震えるそれを口まで運び、舌先に載せて、

冷たくて甘くて少しすっぱくて甘い。いまだ体験したことのなかった味覚に、

た もだ

ティアットは耐えきれず身をよじり悶える。

ノフトと二人、噴水広場の見えるカフェで、おやつ中である。

グリックはいない。彼はいま司令部に残り、第一師団の技官たちと何やら難し

い話をしている。お目付役もなしに妖精が二人きりで出歩いていてもいいのだろ

うかと思うが、ひとまず誰も何も言つてこなかったので、よしとしよう。

「ああもう、腹立つったらね-な、もう*」

当のノフトは、不機嫌もあらわに、梨のタルトにフォークを突き立てている。

「ど一して、ナイグラートが犯人なんてことになんだよ。どう考えてもおかしい

だろ一が、あいつは拉致なんて面倒なことするくらいならその場で焼いて食う

ぞ」

いやそれはどうだろうなぁ、とテイアットは思つたが、口にはしなかつた。

「誤解ですつて。いまグリックさんが話してくれてるみたいだし、すぐにわかつ

てくれますよきつと」

「い一や甘いね。あれはネチネチした性格の顔だ。一度容疑者リストに載ったら

墓の中まで疑い続けるタイプだぞ間違いね一よ」

あんぐりと大きく開けた口にタルトの一切れを放り込み、もつしゃもつしゃ。

「......うめ一なコレ」

真顔で一言。

「ひときれください」

迷わず要求。

交渉の末、ョーダルトヶーキと梨のタルト、一口ずつのトレードが成立する。

手元のメニユーには、『店長おすすめ』の見出しとともに、ドーナツセットの

絵が描かれている。これが実に美味しそうで、どうせならそっちを食べたいかも

とかなり悩んだ◦けれど結局、ョーグルトヶーキを選んだ。

なんとなく。本当になんとなく。ドーナツを食べても、何か物足りなく感じる

ょうな気がしてしまったのだ。いや別に、同席者としてのノフト先輩に不満があ

るとかではまったくないのだけど、そういう問題ではないのだけど、なんとな

だれ

何の言い訳を、誰に対してしているのだろう、自分は。

「早く本当の犯人が捕まって、誤解が解けるといいですね◦それと、あの大き

い……マ……マゴなんとか先生も、無事だといいんですけど」

「んだな一。自分たちで捕まえに行けね一ってのは、マジでしんどいし」

もぐもぐもぐ。これもうめ一なもう 一口くれよ。もうだめです残りはわたしの

ですなんだとこら先輩の言うことが聞けんのか誰が相手だって譲れないことはあ

るんです。

皿が空になる。

「お前も、もどかしいだろ? せっかく遠いとこから、空を越えてきたってのに

さ」

「それは、まあ」

紅茶のカップに、たっぷりとミルクを注ぐ。縁からこぼれる寸前まで。

г……なんか、思い出すんだよな」

「何をです?」

そろそろと持ち上げて、縁に口をつける。ずずずとすする。

「クトリがさ、例の二位技官に熱を上げてた時のこと」

テーブルに时をつき、噴水広場よりさらに遠くへ遠い目を向けて、ノフトは懐

かしむように語る。

「あたしにゃ、男に惚れるっていう気持ちがうまいこと理解できなくてさ。あい

つが最後になんで笑ってたのか、ずっとわかんね一ままだった」

「......先輩」

「いや、だってしょ一がね一だろ? 妖精ってのは、もともとそんなもんなんだ

から。男と女ってな、子供を産んで殖えるために分かれてんだろ。あたしらにゃ

関係ない話じゃね一か、なあ?」

なあ、と同意を求められても。返答に困る。

「ん。でも、グリックさんはどうなんです?」

「あん?」

「種族は違いますけど。何年もずっとそばにいて、パjトナーやってるんですよ

ね。信頼関係とか、がっちり固まってるんじゃないですか」

「あ一、ないない。たぶん、お前が期待してるようなそ一ゆ一のは、ない」

ぱたぱたと手を振られる。

「だいたいあいつら緑鬼族にゃ、恋人とか夫婦とか、そういう文化がね一んだ

よ◦群れの誰かが生んで、群れの誰かが育てる。その場の年上の全員が親で、年

下の全員が子供なんだとさ◦だから、親じゃなくて出身集落の名前を姓にしてる

だろ?」

「はあ」

そう言うノフトのさつぱりした顔を見る限り、照れ隠しなどではなさそうだ。

「世界で一番気に入つてる男性は誰、つて話でしたら、どうなります?」

「そりや、そういう聞かれ方なら、確かにあの旦那だけどな?」

即答だった。

「あ、やっぱり」

そうい、っのも、なんだかいいな-そうティアットは感じる。

クトリ先輩たちが交わしていたそれとはまた違う意味合いでの、大人の関係。

そちらも格好いいと思うし、素晴らしいと思うし、憧れもする。

「ただ、クトリとか今のあんたみたいな、花びらまき散らしてふわふわした気持

ちと同じかつて言われたら、なんか違えと思うんだよなあ」

「いいじやないですか、それでも素敵だと思いますよ」

......i、

「待って」

гん?」

ぱちくり、とノフトがまばたきひとつ。

「なんでそんな話になるんですかというかそこはわたしと先輩を一緒にしないで

というか、いえ一緒にしてもらえること自体は光栄なんですけど今回ばかりは

ちょっと違うというか、わたしとフエオドールはそんな感じの関係じやなくてお

互いにばっちり嫌い合ってるといいますか、あいつは個人的にも任務的にもわた

しの敵でしかないわけでして」

「へぇ?」

ノフトが意地悪い顔で笑っている。

早口で抗弁したが、まともに聞いてもらえない。

「その『やれやれ素直じゃね一な』的な優しい笑顔やめてください刺さります」

「いや-~、ティアットお前可愛いな-^」

「いえ、だからその、違うつたら違うんですつてば!」

さらなる抗議をしようとしたところで、

「——あ」

大型の内燃輸送車が、広場を横切っていくのを見た。

その輸送車の荷台の上には、物々しく武装した十人以上の兵士たち◦その全員

が、銃身が腕ほどの長さのある大型の火薬銃を、肩に立てかけているところまで

見えた。

「あれ、って」

「マゴメダリ博士救出の実働隊だ、ご想像の通りにな」

振り返れば、「よ」と片手を挙げたグリック•グレイクラックの姿。

「平和裏に事態を収束できればそれに越したことはない、しかし万が一拉致実行

犯が抵抗した場合、生半可な戦力では制圧できない——つ一ことで、あんだけ重

武装した連中を揃えたんだとさ」

「な」絶句する。

この場合の拉致実行犯というのは、先の話からすると、ナイグラートのことを

指しているはずだ。なるほど確かに、そこらの兵士で取り押さえられるはずもな

い相手だというのは間違いない。しかし、

「いや、言いたいことは分かるぜ? あのナイグラート相手に多少武装を固めた

ところで勝負になるはずね一だろ、だな?」

違うそうじゃない。いや、そういう気持ちがないとも言わないけど。

「実際には、貴翼帝国の工作員どもとの戦闘も予想されている、だとさ。まつた

く、世の中物騷になっちまったもんだよな」

貴翼帝国。

そういぇば、黒山羊の一位武官の話の中に、そんな言葉も出てきたような気が

する◦ 6番から9番までの浮遊島を鎖で繋ぎ領地とする貴族制国家。浮遊大陸群

のこれまでの歴史の中で、幾度も近隣の浮遊島に攻め込み、そのたびに護翼軍に

制圧されている。

「へぇ。帝国があのでっかい旦那を横からかっさらうかもってことか? わざわ

ざ護翼軍と喧嘩してまで?」

こ4のき

「可能性は無視できね一だろ。エルビスが五年前に暴れてから、貴翼と楡木が派

けんせい

手に牽制し合うようになってきたらしいぜ?」

「っか一」

あお

ノフトが空を仰ぐ、

「ったく。どいつもこいつも、そんなに隣のやつとの小突きあいが好きかね」

「まあ、そう言つてやるなよ」

二人の会話を聞き流しながら、ティアットは、輸送車の走り去ったほうをぼん

やりと眺めている。眺めながら、記憶を漁つている。

あの兵士たちが携えていた火薬銃に、見覚えがある。

<十一番目の獣〉との戦闘に備え、38番浮遊島に運び込まれていた数多くの兵器

かか

たち。役立ちそうなものもあつたし、どう使えと言うんだと頭を抱えたくなるよ

うなものもあった◦そんな中に紛れていた、携行火器の中でも最大級の対人殺傷

力を誇る最新火薬銃が、あれだ。開発銘は確か、『瞳抉り』。

近距離貫通力に特化していて、薄いものであれば壁を貫けるとまで仕様書には

書いてあった。高価であり、管理が難しく、使いどころも多くないため、護翼軍

全体でみても配備数は大したことがなかったはず。そんなものを、輸送車いっぱ

いの兵士に行き渡るだけの数、用意した◦いったいそれは、どういう市街戦を想

定してのものなのか。

まるで、これは、そう、奪還対象である単眼鬼を殺すために持ち出された装備

のよ、っだと-

「-ティアット?一

「あ、え。はい?」

我に返る。

「グリックがさ、待たせた詫びで、もう一皿頼んでいいってさ。何にする?」

「あ……はい!」

テイアットは妄想を捨て、現実へと改めて向き直る。現実とは即ち、『季節の

彩を載せたふんわりクリ^--^ケ^キ』のことである。

そうだ◦ここはひとつ、最高においしいケーキを食べて、嫌な想像は忘れよ

、っ0

そう決めて、輸送車の去った方向から視線を引きはがすと、メニューに向き

直った。

5 鬼たちのテイ^ハ^~テイ

「……そろそろ、放してほしいのだけど」

苦しそうに、ラキシュがそう訴えた。

「ゃだ」

駄々をこねる子供のょうに、嗅人鬼の女-ナィグラ^^卜-がその訴えを却

でした。

ナィグラ^卜の腕が、ラキシュを、これ以上ないほどしっかりと捕まえてい

る。放す気配すら見せていない。喰人—鬼の膂力は、大熊の背骨すら易々折り砕く

と言われている。もちろん現実にそういうことになっていない以上全力など出し

じゆうぶん

てはいないのだろうが、だからといって充分な手加減がされているという風でも

ない。

「魔力を暴走させて昏睡した、もう二度と目覚めないって聞いてたんだから。

いっぱい泣いたんだから。涙の分だけ、いっぱい返してもらうんだから」

「こ……昏睡?.......って、くる、くるし、骨、みしみしって、ちょっ、」

「失礼、ナィグラ^ —卜さん」

その肩を、後ろから軽く叩いた。

半分泣きべそのよぅになったナィグラートの顔が、振り返る。

「オデットさんの弟くん」

少々不名誉な呼ばれ方をした。いや、もちろん事実ではあるのだけれど。

「フェオドール•ジェスマンです。故あって、ラキシュさんを含む四人の上司の

よぅな立場にしばらく就いていました」

「え……あら? あらあら、じゃあ、あの子たちの管理者の位官って」

「はい。先週くらいまでは、自分が。今は——ラキシュさん以外には後任がつい

ているものと思いますが」

嘘はついていない◦ただ、「自分が管理者をやめたのは護翼軍に反逆したから

で、ラキシュがここにいるのは脱走兵扱いだから」という点を一通り伏せている

だけだ。

「……あの子たちは、元気でやっていますか? 迷惑は、かけていませんでした

か?」

「ええ、まぁ......少なくとも、元気です」

曖昧に、片方の問いにだけ、答えた。

「……で。そのフェオドール•ジェスマン元四位武官ドノは、どういう用事でこ

んなところにまで来たのかしら?」

割り込むようにして、オデットが会話に参加してきた。

「見てわかると思うけれど、いま少し取り込み中なの。お茶を飲んだら、彼女を

連れて帰ってくれる?」

「その言葉、半分くらいはそのまま返すよ、姉さん。僕らはマゴメダリ博士に会

いに来ただけなんだけど、どうして姉さんまでここにいるのさ」

「それは、貴翼帝国の諜報班から機密をいくつかちよろまかして……あ」

そこまで言って、オデットは額に手をあてた。

「そういうこと。フエオドール、もしかしてあなたの今回のネタ元、情報屋の

ナックス•セルゼルかしら?」

「:••:あいつの事まで知ってるのか。その通りだよ」

「やっぱり◦彼はちよくちよく貴翼の諜報班から調査記録をつまみぐいして商品

を仕入れてるのよ。つまり、あなたのところに売られた情報と私たちが持ってる

情報と、元を迪れば同じもの」

-ああ、なるほど、そういう。

嫌な被りもあったものだと、頭を抱えたくなる。

要人が、次々と殺されているのだとい、っ。

一連の連続殺人事件は情報封鎖の対象となっており、暗号名『黒塗りの短剣』

を冠する形で秘密裏に捜査が行われている。

判明している犠牲者は順に、岩将補佐。古参の一位武官。オルランドリ総合商

会戦略顧問。コリナディルーチェ総合施療院副院長。

調べてすぐわかる共通点は、もちろんその立場。いずれも護翼軍の要職に就い

ているか、あるいは過去に就いていたことがある。そして、兵器「黄金妖精」の

運用、特にその成体化調整のシステムの構築•改善•運用などに関わっていた。

現在の護翼軍に残されている書類を浚えば、そのくらいのことまでは分かる。

そのくらいのことまでしか、分からない。

テーブルの上には、淹れたての紅茶と、皿に山盛りのビスケット。

「......そんなことになつてたんだ?」

ヵップー杯分の紅茶に、投入した角砂糖は四つ。ほぼ砂糖水と化した液体をす

すりながら、フエオド-—ルは眩いた。、っん、、っまい。

「軍から離れてまだ何日も経ってないのに、すっかり世の中に疎くなった気分だ

な。……それで、理由は説明されてないけど、護翼軍じや次のターゲットがマゴ

メダリ博士だと推測されてるってわけだね?」

ええ、とオデットが小さく領いて、

「そこまでの情報で、何かわかる?」

гん一……まぁ、いくつかは。でも、姉さんも気づいてそぅな範囲の話だよ」

「聞かせて。今のあなたがどのくらいできるのか、知っておきたいし」

少し考える。ここで自分の手のうちを晒すことに、どれだけの意味があるか。

伏せておくべきヵードは何で、かましておくべきハッタリは何で、かけるべきか

まは何か。

考えた末に——ここは正直に話したほうがいいだろうなと思う。

しょうがないなあ、とフエオドールは小さく1を吐いて、

「連続殺人の犯人は護翼軍か、もしくはオルランドリ商会の上層部」

マゴメダリが、はっとなって、青ざめた顔を上げた。

ナィグラートが、紅茶のヵップを取り落としかける-のをなんとか堪え、

「え、え?」とフエオドールとマゴメダリの顔を交互に見た。

オデットが「ふうん」とつまらなそうに鼻を鳴らして、

「推理の根拠は?」

「マゴメダリ博士が命を狙われてる、という推測からしておかしいでしよ。どこ

の勢力も、貴翼帝国もそれを欲しがってる。調整技術の第一人者である博士のこ

とは、無傷で手に入れたがってるはずなんだ。そこまでは自明なはずなのに、軍

は博士が殺されそうだと判断してる。ってことは、軍にはそういう判断を表明す

る根拠、もしくは理由がある」

話しながら、ミルクポットを手にとる。

「んでもって、も、っひとつ。ここに来る前に見た、街中を、っろついてる護翼軍連

中の装備だけど、『瞳抉り』を標準装備してた」

一面に並ぶ、何のことかわからないという顔、

「射程を切り詰めた殺傷力特化の大型火薬銃。常識離れした生命力を持つような

種族を殺すための専用装備ですよ。貴翼帝国の工作員たちを相手どるには向かな

い過剰火力。当たり所しだいで喰人鬼すら挽き肉にできるって話だから、おそら

く目当ては......」

「う......そ......」

ナィグラートが目を丸くする◦無理もないと思う◦普通の感性を持った人は、

まつこうから殺意を向けられることなど受け入れられない。

「上手に挽き肉作るのって大変なのに!そんな雑な調理のされ方、嫌よ!」

「......え一と」

え、なに。怒るとこ、そこなの。

「それは」マゴメダリが細い声で問う「僕を拉致する勢力としてナィちやんが現

れたから、急いで対策を用意したってだけの話だろう。裏の狙いなんてないかも

しれない」

「ありえないですね。ナイグラートさんが護翼軍に追われ始めてから半日も経っ

ていないんでしよう? 瞳抉りはすぐに数を配備できる類の武器じゃない。い

まそれが当然のように持ち出されてるってことは、チャンスがあったらすぐにで

も使えるように予め準備してあったってことです。おそらくは-」

頰を膨らませるナイグラートに視線をやって、

г——ナイグラートさんが関わってきたことは、護翼軍にとって幸運なアクシデ

ントだった。これで大手を振って対巨人用の兵器を投入できる、とね◦不自然な

ほど手際よくナイダラートさんの手配が進んだこと、状況を見て撤回される気配

もないこと、などもその推測を裏付ける。というか、ここまでまとめて」

紅茶を飲み干す、

「普通のやり方では殺せない単眼鬼を、事故を装って殺す◦それが彼らの真意だ

という解釈が、一番呑み込みやすい」

マゴメダリに、視線が集まった。

「最初は、偉い人の汚職の証拠でも摑んでいるのかとも思いました◦博士はそれ

を目撃なり協力なりをしてしまい、口封じのために狙われているのかと。けれ

ど、棣子を見ている限り、どうやらそういうわけではなさそうだ」

ならば、とフエオドールは続ける。可能性をひとつひとつ潰していけば、少な

くとも、残る選択肢はより真実に近いものにはなっているはず。

「護翼軍は『浮遊大陸群の存続の脅威となる者と戦う』組織だ◦そこに善悪の区

別はない。つまりあなたは、そしておそらく殺された四人も、非公式ながらそう

いった脅威の一種として認定された……それなら状況の辻棲が合うと考えたわけ

ですが」

マゴメダリは、何も言わない。再びうつむき、巨大な肩を大きく落としてい

その沈黙が、どのような言葉よりも雄弁に、フエオドールの推測を肯定する。

「纏……」

ナィグラ^—卜が、心配するように小さくつぶやく。

ばちぱちぱちと、場違いな拍手の音。

その場の視線が、今度はオデットに集まる。

「だいたい正解◦怖い話よねぇ。護翼軍に目をつけられたってことは、浮遊

大陸群のほとんどに逃げ場がないってことだもの◦今みたいに街中を逃げ回るの

にも限界がある。浮遊島の外に出たところで、それだけでは、護翼軍から逃げ切

れはしない」

ままえ

さぁどうする?と、微笑みながら首をわずかにかしげる。

ああなるほど、とフエオドールは得心した。つまりこの姉は、こ、っいう形に会

話を持っていきたかったわけか。命が惜しければ、護翼軍から個人を匿えるよう

な閉鎖性の強い国家へと亡命するしかない。そして目の前にはひとつ、その条件

を完全に満たした国がひとつ、手ぐすねを引いて答えを待っている、と——

「……ちよっとだけ修正させてもらってもいいかな。僕らを殺そうとしているの

は護翼軍の総意じゃなくて、きっと//桃玉の鉤爪//岩将補佐の指示だ」

何かを振り切ったように、あるいは何かを諦めたように、マゴメダリが顔を上

げる。

「いえ、でも//桃玉の鉤爪//岩将補佐は」

「そう、五人の中では最初に死んだ。判明している連続殺人被害者の、最初の一

人だ。きっと彼のことだから、そういうふうに処理しろと言いおいて、自殺した

んだろうな◦最後の指令はたぶん、どうにか理由をつけて僕たち五人を全員始末

しろ。妖精調整の術を、この世に残すな、あたりだ。だから——うん、やっと覚

悟が固まった。僕はこの後、護翼軍に投降する」

「わざわざ殺されに?」

「もう、充分生きたよ。これまで弄んできた命のことを思えば、生き過ぎたくら

いだ。最後に懐かしい顔も見られたしね。今ごろ、//桃玉の鉤爪//たちもきっ

と、僕が同じところに来るのを待つているだろうし」

「先輩。その覚悟は……」

静かな、そして様々な感情を押しつぶしたような声で、ナィグラj卜が尋ね

る。

「アルミタたちよりも、あの子たち全員の未来よりも、大切なものなの?」

わずかな逡巡の後に、単眼鬼はただ、力なく顔をそむけた。

ナィグラートはそれ以上、何も言わなかった。無情ともとれる返事に対して、

責めることも詰ることもしなかつた。

「マゴメダリ博士」重い空気に割り込むように、フエオドールは尋ねる「改めて

お伺いしますが、妖精と、前世の人格侵食についての第一人者……で、よろしい

のでしようか?」

「そもそも世界に一人しかいないのに、第一人者も何もあったものかな……」

自嘲もあらわに、そう眩く。

「お願いしたいことが、二つあります」

「駄目だよ。言っただろう、妖精調整は、もはや行えない」

「聞きました。けれど、そのことについてのお願いは二つ目のほうで。先に、も

うひとつ頼らせていただきたいことがあります」

どういう意味か——訝るように、マゴメダリが顔を上げる。

「今のお話、新たに妖精を調整することが禁忌だ、という形で受け取りました。

既に調整済みの成体妖精兵についても全て処理しろ、というようなお話ではない

のですよね?」

「ぁ、ぁぁ」

「では、どうか。一人……妖精の診断を、お願いしたいのです」

視線を、ナィグラートに。

いや、その腕の中で(なぜか)ぐったりしている少女に向ける。

「ラキシュ•ニクス•セニオリス」

名を呼ばれたラキシュが、何のことだと、こちらに目を向ける。

「私?」

そう、君の話だ——と、一度頷いてみせてから。

「彼女は一度門を開き、人格を崩壊させました◦どういう経緯でか目を覚まし、

今はこの通り、起きて活動できるようにはなりました......が、その理由も分かっ

ていないままでは、いつその奇饋が尽きるかすら分かりません。彼女の心がまた

こつ

壊れる前に、なんとかしたいんです」

「フヱオドール、あなた」

「いらないとか言わないでよ、ラキシュさん。君たちのそういう遠慮は聞き飽き

たし、もう、聞きたくもないんだ」

咎めるような声を、見もせずに一臟する。

単眼が、まっすぐにフエオド^ルを見た◦フエオド^ルもまた、その単眼を、

色眼鏡越しではあったが、まっすぐに見た。

「今ここにいる女の子の命の話です。もしこれが、あなたの語る禁忌に触れてい

るのでなければ、どうか」

г……そうだね。それくらいなら、//桃玉の鉤爪//たちも怒らないだろう」

安堵が、フエォドールの内側に広がる。

「けれど、そうだな。代わりというわけじやないけど、ひとつだけ……そう、ひ

とつだけ、頼まれてくれると嬉しい」

単眼鬼の太い指が、一本だけ立てられる。

「おそらく僕はもう、あの家に戻ることがないだろう◦けれど、できることなら

置いていきたくないものがある。それを、とってきてほしいんだ」

「……まだ、外には、いろいろとうろついてる連中がいるんですが……誰かさん

のお友達も含めて」

じろりとオデットのほうを睨む。目を逸らされる。

帝国の協力者だというこの姉は、しかし、ここでマゴメダリを発見したという

ことを工作員たちに報告しようとしていない◦おそらくは身内で手柄の取り合い

でもしているのだろうが、状況としては好都合。

「他の誰より、君が行くのが一番安全だと思ってね。もちろん、無理にとは言わ

ないよ」

フエオドールは、この場所で、自分が護翼軍に追われる身だということを明か

していない。なるほど、マゴメダリの目から見て、このフエオドールこそが、今

この場にいる顔ぶれの中で最も自由に動ける者だと見えているのか。

ちらりと(ナィグラートに捕食されたままの)ラキシュのほうを見ると、好き

にすれば、とばかりに肩をすくめている。

「なるほど、理解しました。では、一体何を持ってくれば——」

「あ•つと、待ちなさい」

制止の声が横から入ってきた。

うんざりしてそちらを見る。まったくこの姉は、どこまでも空気の読めない姉

だ。

「何さ。言っとくけど、これは僕たちの間の取引だ。姉さんの横槍は聞かない

ょ」

「そういうのじゃないから。外が物騒なことに変わりはないんだから、護衛くら

い連れて行きなさい」

言って——オデットは、部屋の外に向けて、軽く手を打ち鳴らした。

「聞いてるんでしょ? 人つてらつしゃいな一

扉の外から、動揺の気配が伝わってきた。

「早く入つてこないと、名前呼んじやうわよ? いいの?」

ノブが回る。ゆつくりと、扉が押し開かれる。向こう側から現れたのは、ぼと

りと雫になって落ちてきた夜空の欠片——などではなく、黒いローブと死者の仮

面ですっぽりと全身を隠した小柄な何者かだった。

「誰さ?」

「私個人の、とても大事な仲間……つてところかしらね。帝国とは別枠だから、

そっち方向の繫がりとか貸し借りとかは気にしないで大丈夫よ。私はただ純粋

に、可愛い弟を一人で危険なところに送りたくないだけ」

瞬間、その部屋の全ての目が、不信の色を湛えてオデットに集中した。

「……そう思われるとは、分かっていたわ」

オデットは力なく微笑むと、わざとらしく心細そうな声で、

「堕鬼種って、辛いわね。ただそう生まれついたというだけで、大事な時に、家

族の情すら疑われてしまうのだもの」

いや、ただの日ごろの行いだろう——という目をフエオドールはオデットに向

けた。

それ、ただの日ごろの行いじゃ-という目をナィグラートはオデットに向け

た。

、っん、ただの日ごろの行いだね——という目をマゴメダリはオデットに向け

た。

ラキシュがどうでもよさそうに嘆息した。

そして、黒ローブの人物だけは、オデットの妄言に対して何の反応を返すこと

もなかった。ただ静かに、死者の仮面の下からまっすぐに、フエォドールをじっ

と見つめていた。

6•ラキシュ

「-そろそろ放してくれないかしら」

フエォドールの背中を見送ってからしばらくして。ラキシュは、がっちりと自

分の体を抱えたままのナィダラートに訴えた。

「聞いていたでしょぅ。私はどぅも、一度心が壊れたみたいなの。そして、それ

までの記憶を一通り全部忘れてしまった。ええと……ナィグラートさん、だった

かしら。あなたが私の何だったのかも、まるで思い出せない」

きゅ、とナィグラ^ —卜の指に力がこもる。

「あなたが、『ラキシュ』という娘に愛を注いでいるのはわかる◦けれどあなた

のことを知らない私は、その愛情を自分へのものとして、素直に受け入れられな

ぃの」

「そう......そうよね。ええ、わかつてる」

ぎゅ、とナィグラ^ —卜の手に力がこもる。

「あの。聞いてる? 私は放してほしいと……」

「私にこうされているのは、嫌?」

ぐ、とラキシュは一度言葉に詰まる。

「そんなことは......その......」

「ほらね。あなたは、とても優しい子」

ぎゆむ、とナイグラ^ —卜の手にさらなる力がこもる。

目を閉じて、幼子をあやすような声で、

「思い出を忘れても、無くしても、ラキシュじやなくなつてしまつたとして

も……私の大事な、そしてお肉の柔らかな子であることに何の変わりもないわ。

だって」

ぐぎぎぎ、と。

「そろそろ止めたらどうかしら、ナイグラ^ —卜」

咎めるようなオデットの声。ナイグラートは振り返って頰を膨らませる。

г……もう。用事は後にして。いま、この子がまた懐いてくれるかどうかが懸

かってる、大事なところなの。もしこの子に嫌われたりなんかしたら、先輩のこ

と、絶対に許さないんだから」

「ええ、だから、教えてあげたほうがいいと思ったの」

「何を?」

「その子、そろそろ危ないんじやないかしら」

なるほど確かにその通り。

オデットの指の示す先、つまりナイグラートの腕の中で。橙色の髪の少女は、

血の気のひいた顔で、深くうなだれていた。

「きゃあああっР: だ、大丈夫ラキシュ、意識あるР: 息できるР:」

万力のような剛腕から解放されたラキシュは、小さくせき込みながら、「え、

ええ」とかろうじて答える。ナイグラ^~卜は胸を撫でおろす。

「ずいぶんと賑やかだね」隣の部屋への扉から、扉そのものとほぼ同じサイズの

単眼鬼が顔を出す「検査の準備はできたよ。ラキシュ君、こっちに来て」

「わかつ」けほ「……わかつたわ、すぐ行く」

わずかによろけながら、ラキシュは立ち上がり、そちらに向けて歩き出して、

「ねえ、ラキシュ」

立ち止まる。その背に向けて、ナィグラートは尋ねる。

「あなたが本気で魔力を熾せば、こんな喰人鬼の細腕くらい、簡単に防御できた

でしよ? どぅして、そんなになるまで、がまんしてたの?」

「——忘れてたのよ」

それだけ答えて、ラキシュは小走りに、隣の部屋へと去つていつた。

閉められる扉。

見えなくなる背中。

「ふふ。ほんとに……ほんとに、優しい子、なんだから」

にやけるょうに笑いながら、ナィグラートは、わずかに顔を伏せる。

「いなくなつたのに、変わつちやつたのに、そういうところだけ昔のままなん

て……反則じやない。私、喜べばいいのか、悲しめばいいのか、わからないじや

ないの」

笑いながら、その膝の上に、雫をひとつ落とす。

fT

そもそもこの屋敷は、つい先日まで、鳩翼人の医者が個人施療院を開いていた

場所であつたらしい。そして、そこに揃えられていた様々な器具や薬品ごと才

デットが騙し取——買い上げて、隠れ家のひとつとした。

それは、成体妖精兵の心身の検査に必要な最低限の条件を満たすものだった。

「まさか、こうなることを予想してたわけじやないだろうに、何を考えてこれだ

けのものを準備していたんだろうね。いつものことながら、堕鬼種の頭ってのは

どういう風に物事を考えているのか分からなくなるょ」

そんな軽口を漏らしながら、マゴメダリの太い指が、幾本かの試験官を器用に

つまみ上げる。中身を軽く振り、混ぜ合わせ、蓋をして、また軽く振って。

「それで」

下着姿のラキシュが、尋ねた。

「何か私に、聞きたいことでもあるのかしら?」

「どうしてそう思うんだい?一

マゴメダリの背中が尋ね返す。

「あの場で、フエオドールにわざわざお使いまで頼んで席を外させたの、ちょ

と不自然だもの。彼がいるとしにくい話でもする気なのかなつて思つただけ」

「なるほど……うん、そうだね、その推測、外れてないよ」

幾本かの注射器を並べて準備。

「君は、どうしてあの弟君——フエオドール君、に協力しているんだい? 君に

記憶がないというなら、それこそ、彼を特別に支える理由もないはずだろう?」

「そうね◦理由はたぶん、ふたつある◦ひとつめは、彼にそういう感情を注ぎ込

まれたから」

マゴメダリの手が止まつた。

「私が彼に対して抱いている感情、どう考えても不自然なのよ◦催眠術とかなの

かしらね◦普通にしているだけで、どんどん彼のことが親しく思えてしまう◦記

憶は無くしても、常識は忘れてない。これがどれだけおかしなことなのかくらい

は、分かる」

私が気づいてることに、きっと彼は気づいてないけれどね——そう、小声で付

け加える。

「まさか——堕鬼種の瞳の力、というやつか?」

「理屈とかはわからないわよ?私は、ただその結果を感じ取っているだけ」

「いや、でもだよ◦感情を操られているなんてことに自覚があるなら、抵抗だつ

てできるはずだ。なら、」

「ふたつめの理由。私が、その感情に操られている自分を、嫌いじゃないから」

椅子の上で片膝を抱き、顎を乗せる。

「慕う思いに、正しいも間違ってるもないわ。世の中には、結婚してから絆を深

める夫婦だつているんでしよう? だつたら、植えつけられることで始まる想い

を肯定したつていいじゃない。少なくとも、今の私は、この心の在り方に幸せを

感じている」

「-幸せ?」

「ええ。彼は私を必要とし、私を想ってくれている◦そして私も彼が必要で、彼

を想っている◦大事なのはそれだけ。もちろん、他にもつと、綺麗でまつとうな

幸せの形もあるかもしれない。けれどそれは、今の私の手にあるものが『幸せ』

であるということの否定にはならない」

マゴメダリは、無言で、検査の準備を再開する。

「私たち妖精なんて、一夜の夢みたいなもの◦その短い夢の中、ひとつでも幸せ

が摑めたということ——それ自体も、とても幸せ。祝福しろとは言わないし、糾

ぐ,I / ノ

弾とか否定とかしてもらっても構わないわよ。そんなもの本当の幸せなんかじや

ない、本物の幸せを探すべきなんだ、とかそんな感じで」

「そんなことは——言わないよ。言いたい気持ちもあるけれど、それでもね」

小さな寝台を示し、横になるように促す。

素直に従うラキシュの腕に、ひとつの注射器の針を当てる。

「僕は、前のラキシュ君を少しだけ知っている。素直で、良い子で、いつも周り

の誰かのことを考えていて、……そのために、いつも自分の幸せを後回しにす

る。そんなタィプの子だったんだよ」

針を通して、薬剤が、ラキシュの体に注ぎ込まれる。

そつこう すいみんざい

「だから……経緯がどうあれ、君が自分の幸福を摑んだというなら、僕は祝福し

よう」

「ありがとう、先生。あなた、いい人ね」

「よく言われるよ。不本意なことにね」

「あら。悪い人と言われるほうがお好みなのかしら?」

ラキシュの意識が、ゆっくりと静かに眠りへと溶けてゆく。

マゴメダリは、言う。

「そうだね。誰かが僕を咎人と詰ってくれるなら、もう少し、気が楽だったのか

もしれない」

fT

小さな扉に巨体を無理やり押し込んで、マゴメダリが隣の部屋から戻ってく

る。

「あれ。オデット君は?」

「用事があるって、帰っちやった。そういうとこ、昔から変わってないみたい」

オデット•グンダカールがオデット•ジェスマンであったころから、彼女は気

まぐれで、神出鬼没だった。どこにでもふらっと現れて、ふらっといなくなる。

「あの子は?」

ナィグラートが尋ね返すと、マゴメダリは診察室に視線をやって、

「ょく眠っているょ。半覚醒質疑や試薬注入は一通り終わった◦検査の続きは彼

女が起きてからだね」

お、ぃこ

穏やかにそう答える。

г——どう、だったの?あの子は、まだ、生きられそう?」

「まだ何とも言えない。それに、その話はフェオドール君が戻ってきてからにし

よう」

「そう......ね、うん、そうね。ごめんなさい」

ナイグラ^~卜は肩を落とすと、大振りなテイ^^カッフに紅茶を注いだ。

ク、'VJ

マゴメダリはそれをつかむと、強い酒を勢いで喉に流し込むように、中身を一

気に飲み干す◦単眼鬼の味覚は大雑把で、味の妙というやつには原則として縁が

なぃ。

「代わりというわけでもないけど、少し、与太話に付き合ってもらえるかい?

ナイちやんに聞いておいてほしい話がひとつ、あるんだ」

「なあに、改まって」

マゴメダリは咳ばらいをひとつ、

「あの子たち——妖精たちは、そもそも、迷える子供のむき出しの魂が、疑似的

な受肉を果たした存在だ◦精神の在り方に肉体が引っ張られている◦そしてきっ

かけの夢を見た妖精たちの精神は、その時から前世の侵食を受け始める◦自分で

はない誰か、かつて存在した何者かの精神に、自分自身という器を明け渡し始め

る。ここまでは、ナィちゃんも聞いているだろう?」

はっきりと説明を受けたわけではない。が、ヴィレムやラーントルクから聞い

ていた断片的な話と、今の話とは矛盾しない。ナィグラートは「ええ」と小さく

うなず

「前世の侵食によって、精神は変質する。妖精は精神の在り方に肉体が引っ張ら

れている存在だ。だから肉体は変化しようとする。しかしうまくいかない。その

時の精神は、異物と混ざり合い、歪になっている。同じような歪な姿に、肉体は

そう簡単には変われない」

だから、と一息をついて、

「現代となっては失われた、かの人間種の秘伝。ゥソーマタージ//という技術を

用いて、あの子たちの肉体を、強制的に、前世のそれに近いものに引き戻す。こ

れが、僕らがあの子たちに施している『調整』の具体的な内容だ」

そうま、たぁじ。耳慣れない言葉だとナィグラートは思った。

だが、どこかで聞いたことがある。

あれは確か、そう、ヴィレムから過去の話を聞いた時だ。悔しそうに、彼はこ

う言っていた◦自分には才能がなくて、位の高い聖剣は振るえなかった、簡単な

呪蹟すら刻むことができなかった——

「調整技術の基礎は、何百年か前に、かの大賢者様が伝えたものらしい。いわ

く、神々にょる世界創成の秘術の、欠片の模造品の搾りかすの成れの果て。規模

や限界は比べるべくもないが、それでも、そこにあるものの存在自体を書き換え

るというその特性自体は、確かに神々の御業と同じものなのだと」

どうして大賢者が人間種の秘術をご存じだったのかは知らないけどね、と小さ

く (特大の)肩をすくめる。

「もちろんその秘術も、万能じゃない。できることは、肉体の曖昧さを強化し

て、精神の変化についていけるょうにすることくらいだった。子供でしかいられ

ない純粋な妖精の体では、大人に近づく精神を受け入れられない。だから、純粋

な妖精ではないものへと、あの子たちの体の変化を促した——」

「......え? I

ぽかんと口を開けて、ナィグラートはその言葉を聞いた。

得体の知れない衝撃が、昔の記憶を引っ張り起こす。

一人の妖精が、いたのだ◦眩しいくらいの人生を、全速力で突っ走っていった

愛しい娘、もとい妹のような子がいたのだ。

あの子は、確か、そう、五年前のあの時、

——粉末純化銀の反応が、陰性だったわ。

-えと。どういう意味?

ナィグラートの脳裏に蘇る、遠い会話。

それにかぶせるようにして、マゴメダリは//与太話//を語り続ける。

「ラキシュ君の血液を、粉末純化銀検査にかけた。結果は陰性だったよ」

——純化銀は特別な灰を使って加工した銀なんだけど、通常の毒素とかじゃな

く、歪められた死に反応して色が変わる……簡単に言えば死霊や屍鬼の類を見つ

けるための薬剤なのね。

忘れられるはずもない◦あれは、他ならないナィグラートが、あの子に対して

かけた言葉。そして今、マゴメダリが、ほとんど同じ言葉を自分に向かって語っ

ている。

「黄金妖精は一種の死霊だ◦だから彼女の血を試薬に混ぜたなら、本来、一瞬で

真っ黒に染まるはずだった。それがまさかの無反応、となれば結論はひとつしか

なぃ」

——つまり、いまのあなたは、黄金妖精じやない。

「つまり、いまのラキシュ君は、もう黄金妖精じやない。おそらくは限界ぎりぎ

りの魔力を熾した結果だろう、遠い前世の記憶に肉体までもが引きずられて、大

きな変質を遂げてしまっている」

「じやあ……じやあ、もしかして」

話に割り込まずには、いられなかった。

悲しい話は、聞き飽きたのだ◦絶えた未来の話に顔を伏せるのは、もう嫌なの

だQだから、この閉塞感に押しつぶされそうな状況の中に少しでも明るい材料が

あるのならと、全力で食いついた。

「もしかして、ラキシュは、もう、妖精の寿命とかには悩まされないでいいの?

あの子、これからずっと、元気に生きていけるの?」

ダグウェ^-ン は«'亡ば

「そうだね◦寿命による自然死はなくなり、適合する遺跡兵装の幅を狭める安全

弁も取り払われた◦彼女たちが完全な大人にならないようにと僕たちが仕掛けて

いた鍵は、すべて外れてしまつた」

^:^ к/_

喜びが、ナィグラートの心を、軽く麻痺させていた。

だから、すぐには気づかなかつた。

マゴメダリの声は、震えている。

「大人にならないように?.......仕掛けていた鍵?え? それつて:••:」

「成体妖精兵は極めて危険な兵器だ◦取り扱いを誤れば、守るべき浮遊大陸群を

脅かす存在にもなりうる◦だから、僕たちは調整の技術を頑なに伏せ続けてきた

し、これからも伏せ続けなければならない-」

嘆くように、単眼鬼は天井を仰ぎ、

「——今の彼女は安定している◦けれど、残りはあとひとつ。あとひとつだけ鍵

がかみ合えば◦ラキシュ君はきつと、浮遊大陸群を脅かす災厄の引き金となるだ

ろう」

ナィグラートは、呆然と、その言葉を聞いている。

「このことを。ナィちやんだけには、知つておいてほしかつたんだ」

7•黒い同行者

ずきずきと、フヱォドールの頭が痛む。

ラキシュが目を覚ましたあの夜から、ずつと付きまとう浅い疼痛◦これのせい

で集中力を妨げられることが、反逆者にして逃亡者という自分の身の上ではとて

もまずV

しかしそれでも、今はだいぶましになつているのだ<

のぞ

鏡を靦きこみさぇしなければ、ぁぃっの顔を見さぇしなければ、痛みは悪化し

じつせん

ない。少しはましになる。そのことに気づき、実践できているのだから。

はな じゆう

どこか離れたところから、散発的に、火薬銃の発射音が聞こえる。

ごよく きよくていこく そうぐうせん

護翼軍と貴翼帝国工作員とが、遭遇戦を行っている。両者ともにマゴメダリ博

たが

土を追わなければならない立場ではあるが、それはそれとしてお互いの存在を無

そうさく はちあ

視することもできない◦街中の捜索のさなかに鉢合わせしてしまえば、どうしよ

せんとう

うもなく戦闘は発生する。

「近いな——ちょつと距離をとるょ」

フエオドールは囁くようにそう言って、色入り眼鏡を外すと、胸のポケットに

収めた。

身を低くしたまま、高く跳ぶ。積層住宅の屋根から、通りひとつを挟んだ向こ

うの屋根へ。着地の衝撃は、体を転がすことで和らげる◦そしてそのまま音もな

く立ち上がり、走り出す◦あの武装集団どもは、単眼鬼の行方を追っている◦だ

からこういう、単眼鬼には到底不可能であろうアクロバティックな移動手段に対

しては、自然と1一一戒が薄くなる。

そのフエォドールのすぐ隣。小柄な人影が、無言でそれに追随する。

夜闇の中の黒ローブ。フードを深くかぶり、とどめのように奉謝祭の仮面で素

顔を隠してすらいる◦おかげで、その人物は確かに手を伸ばせば届くような距離

にいるはずだというのに、まるで亡霊に付きまとわれているような奇妙な気分に

なる。

(……ティアットやラキシュさんと一緒にいたんだ、今さらか……)

ここにいない、本物の亡霊たちのことが脳裏によぎるも、すぐにそれを振り払

う。心配でもあるし、気にかかりもするけれど、今は目の前のことと、すぐ隣に

いるもののことに集中するべき時だ。

この人物は何者だろう、と思う。

姉の仲間という時点で随分とうさんくさいが、そのことについてはひとまず置

いておこう。とりあえず、身のこなしはかなり達者だ。屋根の上をそこそこの速

度で駆け抜けているフエオドールに、さほど遅れることなくついてきている。

「名前とか、聞いてもいい?」

返事がない。

「大陸群公用語がわからない、とかじゃないよね?」

首を、横に振られた。話は通じている、ということらしい。

「姉さんとは、どういう関係かな?」

やはり、返事がない。困った。いろいろと多芸でいるつもりのフエオドールで

はあるが、最大の武器はやはり口先だ◦騙すも騙されるも、言葉が通じてこその

もの。そもそも会話が成立しない相手に対しては、うまいこと立ち回ることがで

きない。

-え ^.

苦い記憶が蘇りそうになったので、すぐに追憶を打ち切った。

Г......スパーダ」

一瞬、それが誰の声だかが分からなかった。年経た老人のような、しゃがれ

声。隣を走る黒ローブの体格にも、身のこなしにも似合わない。

すぐに思い出せる知識がひとつある◦どこだったかの種族の工作員が使うとい

フ:〆\

う、変装用の弱酸だ。わざと喉を軽く焼くことで、声を変えるというしろもの。

何かの本で読んだときに、いかにも体に悪そうな文化だなと印象を受けたのを覚

えている。

「スバーダ。そう呼んでください、です」

薬で濁った声で、そんなことを言ってくる。

刀剣。露骨な偽名だ◦公用語がどことなくおかしいのも、口調や抑揚で自分の

素性を知られるのを避けようとしての細工だろうか。

-ああ、そうか、

「栗鼠徴種、だね」

「え?」

もうひとつ、どこかで読んだ話を思い出した。

90番台の辺境で、文明を否定するようにひっそり暮らしているという、小柄な

少数民族◦彼らの文化では、家族以外の者に自分をさらすということは魂を穢す

ということに繋がると考える。姿。名前◦声。そういった様々なものを、生涯隠

し通すことを掠としているのだという。

この……彼? 彼女?どちらかは分からないが謎の人物は、おそらくそれ

だ。

「——わかった、無理に詮索はしないよ。锭じやしようがない」

「え、え?」

「なんとなくだけど、君の素性の察しがついたよ◦家族以外には決して素性を晒

さない、万が一素顔を見られるようなことがあつたら自害する、だつけ? 興味

本位で視くようなことはしないよ、安心して」

「あ......う、ああ?」

どこか当惑したような気配だけ漂わせ、隣の人物……//スバーダ//?.......は沈

黙する。

少しでも信用してもらえた、だろうか。

いや、別に姉の友人などにどう思われていようと最終的にはそれほど問題はな

いのだが◦短時間であれ行動を共にする以上、今この時だけでも、傍にいて不快

でない程度の相互理解は必要だと思うのだ。

クスパーダ//が話しかけてくる0

「先ほどの娘は、何ですか……だ?」

「先ほど……」

少し考えて、

「ラキシュさんのこと?」

「その名で呼ばれていた娘だ。許嫁か、何かか」

許嫁って。それはずいぶんと発想が飛んでいるような。

「いや、そういう……幸せな関係じゃないよ。なんていうか、こう……償わない

といけない相手というか、そういうやつだ」

「償ぃ?」

「あの子を壊したのは、僕だ。壊れた後のあの子を穢したのも、僕だ◦だから

何を言っているんだ、僕は。気づき、途中で言葉を切る。

「どう、した?」

「——いや。うん。何でもない」

足音を殺したままで、細い摒の上を走り抜ける◦小さな植木鉢を蹴とばしそう

になったが、ぎりぎりでなんとか回避。摒の切れ目で、夜空を背景に大きく跳

願。

寝ていた猫を蹴り飛ばしかけた◦なんとか回避、ふぎゃあと抗議の声をあげる

そいつにгごめんよ」と軽く頭を下げる。

「あなたは、エルビスの……生き残り、だろう?」

奇妙なことを聞かれた。

なんでそんなことを知っているのか、と一瞬だけ訝る◦そしてもちろんすぐに

事情に気づく。そんなもの、あの姉から聞いたに決まっている。

「国防軍の遺志を継ぐ、のか?」

ふ、と鼻から笑いのよぅな息が漏れた。

改めて聞かれると、多少答えにくい。

「その大義は、少し後回しかな」

「......なぜ?」

「個人的にね、どぅしても納得できないことが、あるんだ。まずはそっちの連中

の都合をぶっ壊したい——」

声を抑え、足を止める。

後ろから走り込んできた//スパーダ//の体を静かに抱き留め、自分自身もろと

も手近な裏路地に圧し込む。

「失礼」

そう囁き、視線を表に向ける◦携帯投光器の小さな光が、小さく揺れながら動

いている。かすかに聞こえる話し士尸。

おそらくは、市の自警組織の巡回だろう◦護翼軍に手配されている自分と、見

るからに怪しげな風体の/,スパーダ//、どちらも見咎められれば「夜の散歩で

す」でごまかせなさそうな身の上だ。慎重に行くに越したことはない。

光と声が遠ざかり、消える。

「行こう」

フエオドールが手を離した後も、周囲を警戒でもしていたのか、しばらくクス

パーダゥはフエオドールに張り#いたままでいた。ややあつてから、するりと距

離を離し、また音もなく歩き出す。

慎重なやつだなと思う。正体を見咎められただけで死ななければならない身だ

からだろうか、その背には、日陰に身を潜めて生きていくことへの熟練と執着が

感じられた。

そして、それとは別の話として。

手の中に、不思議な温かさが残っている。

どこか懐かしくて、どこか切なくて、なぜか泣きたくなってくる-そぅい

種類の、不可解な温もりだった。

距離をおいて観察した限り、辺りに見張りなどはいないよぅだった。とはい

え、監視の目がないと言い切れるわけではない。正面玄関から入るのは、あまり

にリスクが大きい。

隣の屋敷の屋上から、音もなく、天窓へと飛び移った。

硝子を静かに切り破り、錠を開け、室内へと降り立つ。

その後ろから、//スパーダゥが苦も無くついてくる。かすかな衣擦れの音を背

後に聞きながら、ふと気づいたことを尋ねてみる。

「もしかして、魔力を使つてるのか?」

わずかな動揺の気配。

「見えるんですか?一

「いや、呪脈視とかじゃなくて、なんとなくそんな気がしただけ。使い手としば

らく付き合ってたから、勘が鍛えられたかな」

仮面の奥、//スパーダ//は表情を隠したまま沈黙し、

「手習い程度、です、だが」

なるほど確かに、と疑いもなくフエォドールは思った。

ティアットやパニバルの使っていた圧倒的な力、ラキシュやリンゴの見せた規

格外の力、あれらを体験した後に見る普通の魔力使いというものは、実にわかり

やすくささやかだ。

魔力は弱小種族が自身の弱さをわずかなりと補うための小細工、というのが軍

での通説だった◦そして、その認識は一般的に、決して間違いではないのだ◦た

またま、自分の会ってきた魔力使い……黄金妖精たちが特別だっただけ。

「あまり、期待はするな、です一

「わかってるよ」

気負わせたいわけでもない。薄闇の中で軽く手を振り、会話を打ち切る。

マゴメダリ•ブロントンの屋敷の中は、ぼろぼろに荒らされたままだった◦誰

ひとり片付けに戻ったりなどしていないのだから当たり前のことではあるのだけ

れど。

人の気配はない。どうやら、護翼軍や帝国の連中やらの興味は、既にこの屋敷

から離れているらしい。見張りの一人ぐらい残してもいいのではと思わなくもな

いが、複数の勢力が実際に砲火を交えるに至っている現在、そういう形での戦力

の分散は下策だと皆が考えたのだろう。その判断の是非についてはさておき、曲

者たるフエオドールたちにしてみれば、ありがたい限りの話である。

目当てのものの場所は聞いている◦二階の寝室の、箪笥の上。頑丈な小箱の、

二重底の中。上の階から侵入してょかったと思ぅ。一階からそこに向かっていた

ら、一段が腰ほどの高さのある階段を登らなければならなかったところだ。

部屋は簡単に見つかった◦しかし、問題はそこからだった。引き裂かれた布団

から舞った綿が辺り一面に積もっている。厚手のコートが何着も、背から腰にか

け大きく切り裂かれて、そこらの床に放り捨てられている。

小箱は、手斧か何かで叩き潰された姿で、床の上に転がっていた。

そしてその中身は、小箱の内蓋にひっかかるょぅにして、そこに残されてい

た。

「これかな?」

拾い上げてみるが、暗くてその細部が分からない。危険かとも考えたが、窓と

雨戸が閉まっていることを確認し、灯りをつけた。手の中の紙切れの姿が明らか

になる。

それは、古びた写真だった。

中央に写っているのは、小山のよぅな単眼鬼。そして、その腹のあたりに背も

たれるよぅに、軍服を着た二人の少女の姿がある。

(-ぇ、)

一瞬、その少女の片方が、知己に見ぇた。

(コロン……?)

脳裏に浮かぶのは、いま38番浮遊島で軍務についているだろぅ少女の、底抜け

に明るく眩しい笑顔。

まばたきひとつで、その錯覚を追い払った。

改めてよく見れば、それはあからさまに別人だった。似ていると思えたのは、

顔のすべてを緩めて楽し気に浮かべる、その笑顔のせいだろう。それと、髪型も

ちよっと似ているかもしれない。それくらいだ。

写真のこの少女はどう見ても十七か十八で、十四のコロンよりも年上。加え

て、写真自体の古さと単眼鬼が微妙に若く見えるところからして、軽く二十年や

三十年くらいは昔のもののはずだ。

裏返してみれば、二人のものと思しき名前が書かれている。「ナサニア•ゥィ

ル•パ^ —チェム」「エルバ•アフェ•ムルスムアウレア」どちらも知らない名

だ。つまり、二人とも、フェオドールとは何の縁もない、赤の他人。

おそらくはここを荒らした賊たちにとつても、それは同様だったのだろう◦だ

からこそ、徹底的に賊に荒らされたこの部屋に、今も残されていた。

(とりあえずミッションクリア、か)

あとはこいつをマゴメダリのところに届けるだけで、お使いは完了だ。とはい

え、言われたことだけを諾々とこなすだけではつまらない◦ここはひとつ、言わ

れていない余計なことをいくつか仕込んでから戻ることに——

「すごぃ、本」

クスパーダ//のつぶやきを聞いて、改めて部屋を見回す。

ここは公共の図書施設などではなく、一個人の私宅だ◦加えて、ここは書斎や

倉庫などではなく、あくまでも寝室のはずだ◦もともと本を置く用途の場所では

なく、置かれたとしてもごくわずかな数というのが本来の相場だろう。しかし、

(——確かに、多いな)

床の上に散らばった大小の書籍類を見て、改めて、そう思う。

ジャンルは様々で一見して節操がないが、そのいずれもが、マゴメダリ博士の

修めた——あるいはこれから修めようとしていた学問に通じるものだった。見回

せば、彼がどれだけ貪欲に新たな知識を求めてきたか、そしてこれからも求め続

けるつもりであったかが分かる。

寿命の短い豚面種たちは、自分の知識や経験を積み上げず、その日その日の損

得のみを考えて生きる傾向がある。そして寿命の長い種族は真逆、多くのものを

積み上げながら、常に明日に備えて生きる傾向がある。

死にたくない、はずなのだ。

短命な他の種族の者よりも強く、彼は人生の終わりを恐れているはずなのだ。

だというのに、彼はあれほどに気弱な顔で、死を受け入れようとしているの

だ。

嫌な気分になった。

(——本当に、どいつもこいつも)

視線を引きちぎるょぅに勢いをつけて、部屋に背を向けた。

「行こぅ」

追ってくる//スパーダ/,の気配を背中に感じつつ、廊下を行く。

——一葉の写真を手に、ラキシュたちのもとに戻る。

部屋からは、いくつかの人影が消えていた。

「あれ?博士一人ですか、他の方々はどこに?」

「ラキシュ君は眠ってる。ナィちや……ナィグラート君はそれに付き添ってる」

隣の部屋を、太い指で示す。

「で、オデット君は、ふらっとどこかに行ってしまったょ◦行き先はわからな

い。……というか、彼女は今もこんな風なのかい?」

わかりません姉とはこの五年ほど疎遠にしていたもので、とは答えずに、

「ああ……神出鬼没は、姉の趣味なもので……」

やっぱりそうかあ、とマゴメダリは頭を搔いた。この説明で納得されてしまう

あたり、学術院時代の姉の素行が思いやられる。

「ということだけど、君はどうする?」

振り返って確認した時には、もう//スパーダ//はこちらに背を向けて、廊下へ

と走り去ろうとしているところだった。別れの挨拶の暇もない。さすがにあの姉

の知人だというべきか、やはり栗鼠徴種(推定)は人と距離を置きたがるものな

のだなと納得するべきか。

遠ざかる背中に、何かを思い出しそうになって、胸がしくりと痛んだ。

けれど、結局、かたちのあるものは何も思い出せなかった。

г......神出鬼没って、近くの人に感染するんでしようか」

「聞いたことはないけど、親族の君が言うと、そういうものかとも思えてくる

ね」

それよりも、今は。

「そこに写ってる、右の子。コロン、じやないですよね?」

写真を手渡しながら、フエオドールはそのことについて尋ねた。

「ああ、ナサニアか。確かに、言われてみればよく似てるね」

何の動揺もなく、マゴメダリは懐かしそうにそう言った。

「今でこそ、成体の妖精たちも幼体たちと一緒に倉庫で暮らしているけどね◦そ

の写真の子たちが元気だったころは、その街の司令部で活動してた。施療院の常

連でもあったから、それなりに仲良くさせてもらってたよ」

かつての妖精たちの管理体制、運用状況、そして何より援護する兵士たちの装

備が古かったことなどの要因で、負傷することが今より多かったのだという。そ

してそのたびに、総合施療院に担ぎ込まれて治療を受けていた。

仲のいい二人だったんだよ、とマゴメダリは寂し気にいう。

「——ああ、それよりだ。ラキシュ君の検査、一通りのところは終わったよ」

露骨に、話題を変えられた。

そして、そのことを指摘することもできなかった。本来の本題はそちらであ

り、フヱオドールの知るべき最優先の情報でもあったから。

「結論から言えば、彼女は健康だ。精神も、かなり高いレベルで安定している」

無意識に、訝し気な顔になっていたらしい。マゴメダリは取り繕うように、

「いや、気休めとかじゃない。本当の話だ。壊れた複数の人格がモザィク状態に

なっている、これは確かだ◦本来ならいつ崩壊が加速してもおかしくないはず、

これも事実だよ。ただ彼女の場合、現況を維持していれば、少なくとも今日明日

にどうにかなるような状況にはなさそうだということなんだ」

「どういう、ことですか? 彼女にいったい何が?」

「人格同士の摩擦が極めて小さい。これは推測だけど、潤滑油相当の働きをする

何かの感情が、二者の意識の表層に染みとおっているんだろう」

意味が分からない。

「かみ砕いて言うなら、そうだな……『心をひとつにする』という言葉があるだ

ろう? 彼女たちの頭の中では、まさに文字通りの意味でそれが起きている最中

だ。ラキシュ君とその前世、二人で共有する大きな感情がひとつあれば、それを

通して人格の削り合いは低速化する。仲の悪い二人が、ひとつの共通の話題で盛

り上がって傷つけあうのをやめたというところかな......あまりうまくない喻えだ

けど」

具体的なところまではわからないけど、たぶん-と、マゴメダリはその後も

何やら細かい説明を続けていた◦しかし、フエォドールは半ばそれを聞き流して

ぃた。

ひとつの確信めいた仮説が、フエォドールの思考を、埋め尽くしていた。

いま彼女の、彼女たちの心の中にある、不自然なまでに大きな感情◦思い当た

るものが、ひとつだけあった。あの夜に、自分の瞳を通して押し付けたもの。ラ

キシュの本来の意思とは無関係に、その心の中で蟠り続けているはずの異物。ま

さか、あれが。

「どぅかしたのかい?」

何でもないです、と反射的に首を横に振つていた。

頭の奥に、鈍い痛みを感じる。

反射的に顔をしかめ、指先でこめかみを押さえる——その弾みで、部屋の片隅

に置かれた、小さな鏡が目に入った。

鏡面の向こうに、黒髪のあいつがいた。

指先をこめかみに押し当てたポーズのまま、無言でこちらを見ていた。

あの、人をからかうようなにやけ笑いはそのままで。ただその瞳は、不思議な

ほどまっすぐに、こちらの瞳を見つめていた。

喜べ、お前は今、望んだ戦場に立っている。

無言の視線が、そう言っているように思えた。

こここそが、彼女たちが立っている舞台。何かに杭い、何かを減し、そして何

かを勝ち取る場所。その一連の手順のために発生し、消費される空間。ここには

興奮があり、栄光があり、悲劇があり、幻想があり、現実がある。

この場所に立つために、力を望んだのだろう?この場所に立てなくて、苦い

思いをしたのだろう?この場所に大切な誰かを送り出すことに、心を痛めたの

だろう? ならば、自分自身の身を傷つけて少女の命を繋ぎとめている今この展

開は、ずっと望んできたもののはず。本望そのものであるはずなのだから。

「......うるさいよ」

無言のままの黒髪にそう文句を投げて、フエオドールは色眼鏡の奥に心を隠

す0

見透かされるのは、気分の良いものではなかった。例えそれが、幻覚が相手

の、さらには妄想めいた幻聴でしかなかつたとしても。

1•それから

あの夜から、既に三日が経っている。

それは、ある意味において、平和な三日だった。

ラキシュは、寝ている時間が増えた。マゴメダリにょれば、複数の人格が割れ

て混ざってなどといぅ複雑な状況になった以上、しばらくは体も心もまとまった

休息を求めてもおかしくないといぅことだった。むしろこれまでの睡眼が少なす

ぎた、気を張って無理を重ねてきたのかもしれない……などと言われると、心配

を通り越して、申し訳ない気持ちにもなってくる。

食材の調達は豚面種たちに任せたが、その調理はナィグラj卜の役目だった。

「男の子の口に合うかはわからないけれど」などと謙遜めいたことを言っていた

が、なかなかどうしてその味には文句のつけようがない。特に羊肉を使った料理

のレパートリーとその繊細な味付けに関しては、こんなものを小さいころから食

ベ続けてきたのかティアットたちは、と妖精たちが妬ましく思えてしまうほど。

そしてフエオドールは、日夜を問わず、街中を走り回り続けていた。

豚面種たちの人脈、財力、情報収集力などは充分に使わせてもらっている。け

れどそれだけでは足りないものがいろいろとあるし、そもそも他人に任せること

のできない裏工作も棣々存在する。結局は自分の足で動き、自分の目で見て、自

分の手で働くことが一番だった。

たまに隠れ家に戻り、皆の顔を見ながら食事をして、また外へと出ていく。

マゴメダリたちを連れての脱出の準備と、それ以外の備えとを、大急ぎで組み

立てていく。

fT

中天にかかる太陽が暖かい。

広場の噴水近くで、有翼種の子供たちが、鳩に餌をやっている◦砕いた煎り豆

をばらまくたびに、必死になった鳩たちが次から次へと群がってくる◦子供たち

は楽しそぅに笑い、次の豆をまく。次の鳩がどこかの空から降りてくる。

四人掛けの長いベンチの端に、フエォドールは座る。

すぐ近くの屋台で買ってきた包み羊を紙袋から取り出すと、一口かじりつく。

しんなりとした葉と、少し冷えて固くなつた羊肉。この街の名物だということで

買ってはみたけれど、期待ほどの味というわけではなかった。

まぁ、それこそ名物なんてものは、所設こんなものかなと思う。まずいという

ほどではないし、そもそも今の自分は腹が減っている。大きな 一口で残りの半ば

近くを胃に収め、そこから三口で全てをたいらげる。残された紙袋を小さく丸め

て、ポケットに収める。

「——あの子に、堕鬼種の瞳を使ったのね」

話しかけてくるその声に、驚きはしなかった。

そろそろ来るだろうなと思つていたし、だからこそ、一人でこんな場所へ来た

のだ。

一ああ」

頷き、視線をベンチの反対側へと向ける。上品に姿勢を正して座る、オデッ

卜•グンダカールの——実姉の横顔が、そこにある。

「それも、ちよつとだけ強力にやつたみたいじゃない」

世の中にはいろいろな生き物がいる◦体色を周囲の景色になじませ身を隠す

蜥螺だとか、捕食される寸前に体から雷を放つ魚だとか、悪臭を放ち敵を寄せ

付けない鼠だとか。特に、大型の獣に捕食される小動物に、その手の特技を持つ

ものが多い。

堕鬼種の持つ瞳の力も、おそらくはそういったもののひとつだ。至近距離で視

線を合わせた者の心に暗示をかけて、敵意や警戒心を削ぎ、親しい友人であるか

のような一時的な錯覚を与える。ちよっとした催眠術。

大して強力な力ではない——というより、はっきり言って、役立たずの力だ。

そもそも条件がひどい。至近距離で視線を合わせるだけではなく、その時周囲

がほどほどに薄暗い必要があったり、両者が適度に興奮状態であったりする必要

がある。いったいどうやって、敵対していたり警戒されていたりする相手を、そ

んな状況に引きずり込めというのか◦しかもあれだ、そこまでの条件を乗り越え

られたとしても、成功率は決して高くないのだ。やってられるかそんなもん。

条件と結果が、かみ合っていない。とても、実用に堪えるものではない。

......フエオドールも、長いこと、そう思つていた。

「そうだね。自分で思ってたより、ちよっとだけ強力にできたよ」

drCK、'二

いまラキシュの心を惑わしている力は、ちよつとした催眠術などという言葉で

表せるようなものではない。明らかに、これ以上ないほど依存させてしまってい

る。

「そうね。さすが私の弟、やっぱり天才だった」

「いや、そういうのはいいから」

「そう言わずに、誇らせなさいよ。うちの愚弟を手放しで褒められるなんて、

めつたにないことなんだから」

「……ほんと、そういうのはいいから」

本気で鼻を高くしているようにも見える姉から、視線を切る。

「何か、言いたいことがあるんだろ? 遠回しなのはらしくないよ、姉さん」

短い間を挟んで、

「あの子を早く殺しなさレ」

突然◦広場に群れていた、十羽を超える数の鳩が、一斉に飛び立った。

抜け落ちた灰色の羽が、陽光を浴びて七色に輝く。

「、っすうす気づいているんでしよう? その瞳の本当の力は、ちよっと便利な催

眠術なんてものじやない。弱体化の結果としてそんなふうにしか扱われなくなっ

ていただけで、本質はまるで別のもの」

静かな声で、オデットはそう言う。

「自身と相手の心の欠片を交換する。それが、私たちの原点が誇っていた力の特

性だったそうよ」

「原点?」

「そう◦かつて堕鬼種は、人間種と敵性精神体……悪魔とのハーフとして生まれ

た種◦代を重ねた今でこそこうして肉体に縛られているけれど、始まりは精神体

に近いものだった」

へえ、と思つた。

堕鬼種の成り立ち、その知識自体は、大して驚くような話ではない。堕鬼種は

鬼種の一種であり、鬼種は五百年以上昔に人間種から変異し、種の枠組みから踏

み外した血筋の成れの果てだ。そこまでは、常識とまでは言わないまでも、比較

的よく知られていること。

ただ、肉体を得た精神体という話は初耳だったし、少し感じるものもあった。

それは、自分が知る黄金妖精たちの在り方と似ていたから。

「自分と相手との心の境界を突き崩し、混ぜ合わせる。それが、この瞳のやって

いること。規模が小さいうちは、お互いの中に自分に通じるものを感じ取る程度

の効果にしかならない……その、わずかな親近感だけが結果となる」

ォデットの声が、硬い。

「けれど、交換する心の量が、ょり多ければどうなるか◦五感や記憶が混ざり合

い始める。感情や思考の境界が薄れる。いろいろ便利ではあるけれど、もちろん

危険な状態ょ。放っておけば、あなた自身の人格が突き崩されて、なくなってい

く」

ぶっ——と。意識せずに、小さく噴き出していた。

「何がおかしいの?」

「え......あ、あれ?」

問われて、自分の口元の歪みに気づく。手を当てて確かめる◦確かに、フェォ

ドール•ジェスマンの顔面は今、笑っていた。

「......そのうち、幻聴や幻覚に悩まされることになる。自分一人でいるときに

も、すぐそばに誰かが見えてしまう。話もできてしまう◦それはもう、末期の危

険信号」

口元を隠したまま、笑いを押し殺す。

そうか、幻聴や幻覚は末期の危険信号なのか。そいつはまた、困った話だ。

自分が瞳の力を振るった相手は、ラキシュ•ニクス•セニオリスー人だけでは

なかった。『死せる黒瑪瑙』。鏡の向こうにいる黒髪のあいつ。ラキシュを相手

に一度開いた瞳の力の堰を、あの時の自分は、うまく閉じられていなかったのだ

ろう。あの暗がりの中で『黒瑪瑙』と目が合って、どうやらその時に、力は再び

二人の心をかき混ぜた。

「解除の方法は簡単ょ◦相手を殺してしまえばいい。心を失ってしまった者と

は、混淆状態を維持できない。回復に多少の時間はかかるけれど、あなたは、あ

なた自身の心を取り戻せる」

ふうん、と気のない鼻返事をしてから、

「その話、姉さん自身の経験談?」

ilねた。

「そうよ」

シンプルな返答を、受け取つた。

皮肉の利いた話だと思う。

心が砕ける。人格が混ざる。自分自身が薄れて、消えて、無くなる。

原因も経緯も違うけれど、まるで黄金妖精たちのようじゃないか◦よりによつ

て、あの子たちの生き方を否定したいと動いているこの自分が、似たような終わ

りに向かつて一歩を踏み出すことになつていたなんて。そしておそらく、その力

とその現状が、いまあのラキシュさんの命を繋いでいるなんて。

面倒なことになつたな、とは思う。

自分が消えるのだということに対する本能的な恐怖も、沸き上がつてきてい

る。ベンチも大地もすり抜けて地のそこまで墜ちていくような、強烈な喪失感。

そして、また。嬉しく思、っ気持ちもまた、この心の中には、確かにある。

この恐怖は、おそらく、あの妖精たちが抱いているものと同じものだ。いま自

分は、遠いところで戦い続けている彼女たちの背に、少し近づいたのだと。

口元が緩むのは、つまり、そういうこと。

「それで?わざわざその忠告をしに来てくれたの?」

「そうね、いちおうそれも、本題のひとつ。弟の体を気遣える程度には、優しい

姉でいるつもりなのよこれでも」

ははは。さすが正統派堕鬼種◦しれつとした顔で、信じたくなるような嘘を吐

く。そういうところ、自分も見習わないといけない。

「もうひとつの本題は、こつち。今回のマゴメダリ先生の件、協力してほしい

の」

г獻だょ」

「なぜ?あなたの目的は、妖精たちに成体化調整を施すことでしよう? だつ

たら他の道がないことくらい分かつているはずよ。このままでは彼は護翼軍に殺

される」

「それは困るな」

「だつたら」

「今度はあいつらを、帝国の兵器として使い捨てさせろと?一

「......ええ、そうよ。そしてそれも、あなたにとって望ましいことのはず」

へぇ、と眉を歪めて先を促す。

г貴翼帝国は貪欲よ。有効な兵器を得れば、すぐさま侵略の鉢とする。護翼軍の

横槍を撥ねのけられるほどの力ともなればなおのこと。そしてそれは、あなたの

本来の目的にとっても都合の良いこと。『浮遊島を減らす』つもりなんでしよ

う?」

「ま、そうなんだけどね-」

あくびを、ひとつ。

決して話が退屈というわけではなかったけれど、ここからは、少しリラックス

して話したかった。

「......フエオド丨ル?」

「ちよっと、思い出話みたいになるんだけどさ。姉さんは、マルゴのこと覚えて

る?」

尋ねてみた。

マルグリット•メディシス。それは、かつてエルビスの名家の御曹司であった

フェオドールの、許嫁の名だ。初めて出会ったのは、フェオドールが十、マルゴ

が七の時。双方の家は二人が男女の関係になることをもちろん望んでいたが、当

の二人はまったくその意に添うことなく、家族のように——小さな子供とその面

倒を見る兄のように、ゆっくりと仲を深めていった。

「ええ、-もちろん、覚えてる」

どこか硬さを感じる^!尸。オデットは頷いた。

「子供は、苦手だったんだ。ちよっと®しい顔を見せたら、すぐ懐く。ひっつい

てくるし、よじ登つてくるし、まとわりついてくるし、かじつてくる。こつちが

腹の中で何を考えてようと、おかまいなしだ」

「フヱオド■—ル-」

「そして、少し目を離した隙に、いなくなる。別れを言う暇もなく」

ぼんやりと、フエオド^ —ルは語る。

「楽しかったんだ。ああ、そうさ。認めるよ。あの時、マルゴと一緒にいて、

ずっと楽しかったんだ◦なのに、最後に見たはずのあいつの顔を、思い出せない

んだ。泣いてたのか笑ってたのかすら、分からないんだよ」

うまく、言葉が出てこない。

声に込めるべき感情も、うまく定められない。

「それでも、忘れられると思ったんだ。大義のために戦って、義兄さんのやりか

けていたことを正しく継いで、そういう生き方をしていればそのうち思い出さな

くなると思ってたんだょ。だけど」

息を継いで、

「無理だった。僕は繰り返したんだ。懐かれて、ひっつかれて、ょじ登られて、

まとわりつかれて、かじられて、楽しくて、嬉しくて、なのに、また、目を離し

たんだ。リンゴはいなくなった。別れを言う暇もなかった。そして僕はまた、最

後に見たあの子の表情を思い出せない」

一度、言葉を止める。ゆっくりと、空を仰ぐ。

「——だから、僕は、もう、あいつらをどこにも、送り出させたくない」

「フヱオドール、あなた」

「わかってる。僕は無茶苦茶を言ってる◦理屈になってない、一時の感情だけで

とんでもないことを言つてる。わかつてるんだ」

けれど、それでも。

そもそも自分は、理想のためにこの世界を変えようなどと言い出したのだか

ら0

一度見つけてしまつた、自分自身にとつての理想を、捨てることはできない。

「だから、あいつらを兵器にしようとする者は、護翼軍だろうと貴翼帝国だろう

とあいつら自身だろうと、全て、僕の敵だ」

ゆっくりと、時間が流れていく。

オデットが、立ち上がる。

「あなたには、失望した」

「奇遇だね◦僕もだよ」

冷たい声に対し、苦笑を返す。

「あなたの幼稚な理想に興味はない。先生は私たちがもらう。立ちふさがるとい

うなら、遠慮しないで潰すわ」

「させないさ。彼は、姉さんたちには決して渡さない」

フエオド^—ルもまた、立ち上がる。

オデットに背を向け、歩き始める——

「ひとつ、最後に聞いてもいいかしら」

足を止める。

去り際に質問とは、なんとも趣味が悪いものだと思う。会話の緊張感が解けた

ところを狙い擊ち、相手の素顔を弓き出すための話法ということか。 まあ、

「何さ?」

そうだとしても、別に困らない。既に正直な気持ちは伝えたのだ。これ以上引

き出されて困るような秘密は、フヱオドールの中には、あまり残っていない。

「もしも......」

ひ^

どういう演技なのか、ためらうような響きを込めて、オデットの声が問う。

「もしも、リツタちやんが生きてたとしたら......もう一度、会いたいと思う?」

「は、」

残酷な質問だと思った。

希望の中には、その存在を仮定して考えるだけで辛くなるというものがある。

これは、まさにそういう類のものだ。

「会えるわけ、ないだろ」

フエオドールは大げさに肩をすくめた◦背を向け合っているいま、どんな仕草

も姉には見えないだろうと分かっていたけれど。

「あの子が大好きでいてくれた優しい許嫁のお兄ちゃんは、もうどこにもいない

んだ。薄汚れた今の僕が、どの面を下げて、あの子の視界に入れるって言うんだ

よ」

「そう......そうね」寂しそうに、「あなたたちなら、そう答えるわよね」

あなた、たち。

どうい/っ意味だろう、と思い振り返る。

だが、オデットはもうそれ以上、どのような言葉を残すつもりもないらしかっ

た。その背中は既に遠ざかり、人込みの向こうへと消えようとしているところ

だった。

勝手に会話を続け、勝手に会話を切り上げる◦いかにもあの姉らしい話だと

思った◦理不尽で、気伲で、何を考えているのかを読ませなくて、そして、いつ

もろくでもないことを考えている。昔から、何も変わつていない。

「......ん?」

オデットのすぐそばに、翼を持った誰かが近づいてきたのが見えたような気が

した。

確認しようにも、まばたきひとつの後には、もうそこには雑踏が見えるだけ。

「ナツ......クス?」

翼から連想して、鷹翼種の友人の名が、思わずこぼれた。

しかしもちろん、そんなはずはない。副業についてはさておき、彼の本業は第

五師団に所属する上等兵であって、今は38番浮遊島で軍務に悲鳴をあげているは

ずなのだから。

例の、精神の混濁が見せる幻覚……の類とは、違うような気がする。ナックス

を相手に瞳の力を使つたことなどないし、いま彼を身近に感じているというわけ

でもない。気のゆるみの見せた、ただの錯覚なのだろう。

「しつかりしろ、僕」

改めて、姉と敵対した。そのことの重みを嚙みしめる。

味方にしても信用できないが、敵に回すと危険極まりない。それが堕鬼種とい

うものだ。そしてあの姉は、落第気味のフェォドール•ジェスマンと違って、清

く正しく正統派の堕鬼種。自分は今、本当に面倒な相手に、宣戦布告をしたの

だ。緩んだままでなど、いていいはずがない。

自分の頰を両手で張って、気合いを入れた。

2•愛し合わない二人は

しよ/っそ、っ つの

カレンダーを見ると、焦燥が募る。

38番浮遊島での戦いの日まで、もう時間がない。その日が訪れれば、ティアッ

卜とコロンとパニバル、あの三人の兵器は本来の用途のもとに使われる。

その前に、どうにかして妖精倉庫の問題を解決して。さらにそのことを、彼女

たちに伝えて。「自分たちが犠牲にならずとも後輩たちは無事に生きていけるん

だ」という確信を持たせ、固めていたであろう死の覚悟を覆させなければいけな

V

だから、

「例の飛空艇ノ都合がつきましたヮ」

例の豚面種の美女からその報せを聞いた時には、天井を突き破らん勢いで飛び

跳ねかけた。

例の、というのはつまり密輸船だ。フェォドールたちがこの浮遊島に来た時に

使つたものょりも、さらに隠匿性に気を遣つている。そうでなくとも単眼鬼は目

立つ。そして、行き先が誰かにバレてしまつては意味がない。

ここ数日に護翼軍が港湾区画の警備を強化していることもあり、時間がかかつ

てしまつた。けれど、まだ間に合う。間に合えば、何とでもなる。してみせる。

テイアットも。コロンも。バニバルも。リイエルも。戦場になど、送らせな

V

「というわけで、出立の時です!」

部屋に飛び込み、高らかにそう宣言した。

続いた徹夜のせいで、やたらとテンションが高い。マゴメダリとナイグラー

卜、二人が肩をびっくりさせてこちらを見る。

「空に出る準備が整いました。夜明け前には行ってしまいたいので、準備をして

ください。引き続き豚面種たちのサボートはもらえるので、かさばる私物は移動

した先で再調達ということでお願いしま——どうしました?」

二人の顔を交互に見る。

「いや。……そうか、準備ができたのか」

マゴメダリが特注の椅子から立ち上がる。

「ひとつ、聞いていいかなフエオドール君。そんなタィミングではないとは思う

んだが、できたら今のうちに、君の意思を確かめておきたい」

「はぃ?」

「もし、浮遊大陸群の無事とラキシュ君の命一人を天秤にかけるとしたら、君は

どちらを選ぶ?」

——はい?

「それは、心理テストか何かですか?あなたは性的に抑圧されています、みた

いな」

「似たようなものでは、あるかもしれないな。性的な結論は出てこないけど」

少し考える。少しだけしか考えない。

「ラキシュさんですね」

「......だろうね。けれど、どうして?」

「理由は二つ。ひとつめは、そもそも浮遊大陸群の無事なんてものがクソくらえ

だからです。世界はもっとわかりやすく脅かされていたほうがいい。誰もがちゃ

お广

んと怯えて、傷ついて、備えて、戦うようにならないといけない。そうしない

と、傷も戦いも押し付けられてる子たちが報われない。彼女たちが報われないと

なつとく いきどお

い、っことに、僕は納得できない。この潰りはも、っ、僕の中では動かない」

ぅなが

マゴメダリは黙って先を促してくる。

「ふたつめは、そもそも僕がラキシュさんを見捨てることはないってことです

彼女を深く傷つけたのは僕だ。僕には彼女を一

とちゆ/つ

」幸せに、という言葉を途中

飲み込み「I

は動かない」

「そう、か」

これ以上傷つけさせない義務がある。この決意ももう、僕の中

マゴメダリは小さく首を振つた。

「君はどうやら性的に抑圧されているようだね」

「そういう結論出てこないつて言つてましたよねР:」

「冗談だよ。いや、君という人格がどういうものなのか、確かめさせてもらつ

た。そこまでしつかりと行動方針を固めているなら、/っん、心配はいらないな」

どこかぎこちない笑顔で、ばんばんと背中を叩かれる。もちろん加減はしてい

るのだろうけれど、一撃一撃が漆喰の壁程度なら突き崩せそうな威力。とても背

中が痛い。

「僕も決めたよ。小さな妖精たちのことは任せてもらっていい。悪いようにはし

なぃ」

Г......博士!」

喜びが溢れてくる◦それは、それこそが、ずっと聞きたかった言葉だ。

「ナィちやんもそれでいいよね?」

振り返って尋ねた先、喰人鬼の女は、どこか暗い表情で——もっともここ数日

ほとんどずっと似たような顔でいたのでそれが素なのかもしれないが——何かを

考え、そして頷いた。

「わかってる。先輩を、信じるから」

「嬉しいよ」

二人のやりとりはどことなく重苦しく、悲壮な決意すら感じさせるものだっ

た。しかしそのことにフエオドールは気づかなかった。よぅやく事態が善い方向

へと動き出した喜びに、それどころではなかった。

fT

どれだけ眩しい光明が見えたとしても、入念な準備が大切であることには変わ

らない。隠れ家から港湾区画への道を、自分自身の目で確かめる。

その道の途中、どうしようもなく、ファルシタ記念大広場のそばを通ることに

なる。

「……ま、大丈夫かな」

それは、とても有名な観光地だ。港湾区画のすぐ近くということで、人通りも

多い◦多くの歌劇や映像晶石でも舞台とされている。そのせいでロマンス大好き

な人々にとっては特別な場所であるらしく、種族を問わず多くのカップルにとっ

て至高のデートスポットに数えられているのだとか。

(問題は、ここだよなあ……)

既に夜中である◦太陽は沈み、街灯の放つほのかな光だけが世界を照らしてい

る。一部夜行性の種族を除き、ほとんどの者にとって、夜は休息の時間だ。だか

ら街からは人通りが減るし、自分たちのように人目を忍んで動く者たちにとつて

都合がいい。

この場所は、例外のようだった。

ぱっと見渡しただけでも、いるわいるわ◦広場のあちこちの薄暗がりに、ムー

ドを出した二人組の姿が見える。種族は様々で、犬もいれば猫もいれば蜥蜴もい

て、さらには鳩やら鷲やらの姿まで見える。夜にはほとんど目の見えない彼らが

ここまで来るのはそれなりに大変だっただろうに、そこまでして浪漫溢れる夜を

過ごしたかったのか。

(周り見えてなさそうだし、大丈夫かな)

できるだけ周りを見ないように気をつけつつ、広場に踏み入ってみる。

案の定、どのカップルたちもお互いのパートナーを見つめることに夢中で、一

せ、i

人で歩くフエオドールのことなど見向きもしない。そうだよな幸せは視野を狭め

るもんだよないろいろ見えなくなるよな、などとひねたことを考えながら歩を進

める。

ファルシタ記念大広場の中央には、大賢者像が立っている。

地上で〈獣〉たちに脅かされていた多くの者たちをこの浮遊大陸群へと導いた

と言われる、伝説の偉人。今も大陸群のどこかで、世界の行く末を見守り続けて

いるという。

「......どうせなら、見守るだけじゃなくて、ちゃんと護つてくれよな」

そんなぼやきをこぼしてから、すぐにそのことを恥じる。

力ある者に守護を押し付けて、それを当然のことのように受け止めて、被害の

責をその守護者の力不足や怠慢に求めて。それは、フエォドールが忌み嫌ってい

る連中の考え方そのものだ。

誰にだって、事情があって。大切なものがあって。そのために差し出せる精一

杯の何かがあって。そんなこと、他の誰も知らないのが当たり前で。

もしかしたら自分がやろぅとしていることには何の意味もなくて、当たり前の

世界の当たり前の在り方に石を投げているだけなんじゃないかと、そんな気持ち

すら湧いてきて、そんなことをぼんやり考えていたせいで気が付くのが遅れた、

「……え」

г……ぁ」

すぐ近く、同じ大賢者像を見上げて、一人の少女が立っている。

明るい若草色の髪が、夜闇の中、眩しく輝いているよぅに見える。

「ぉ——」

それぞれの口が大きく開き、驚きの声が迸り出そうになる——のを、同時に前

方に跳躍、互いの口を手のひらで覆うことで何とか防いだ。

混乱が頭を満たす。なぜこんなところにテイアットがいるのか。分からない。

分からないけれどこの距離はまずい。見たところテイアットも平服姿で、特に武

装はしていない。そしてお互いに非武装となれば、格闘で自分に勝ち目などある

はずもない。

「ど」テイアットの指を嚙みそうになつたので、手を引きはがして「どうしてこ

んなとこにいるんだよ?」

衆目を集めたくはない。小声で、そう尋ねた。

「そ」フエオドールの指は軽く嚙まれた、痛い「そんなの決まつてるじやない、

きみを追いかけてきたの」

テイアット側も事情は同じだったか、やはり声は潜められていた。

「……今度は何、企んでんのよ」

わかるだろ、と答えた。

わかるけど、と返ってきた。

「ちようどいいから、いま教えておくよ。マゴメダリ博士はもう確保している

し、協力の約束も取り付けた。きみの後輩たちの命は、もう護翼軍の手を離れた

んだ」

「うそ」

テイアットの目が、大きく見開かれる。

「え、でも、あのおじさんを連れて逃げてるのはナイグラートだって」

「彼女もいま僕たちと一緒にいる◦事情も聞いたし、協力も取り付けた」

勢い込んで、続ける。

「君たちが戦う必要も、死ぬ必要も、もうないんだ。いや、なくしてみせる」

「……馬鹿だよね、きみ。ほんと、底抜けの大馬鹿」

呆れたように、あるいは心底から呆れて、テイアットは特大の溜息を漏らす。

「とまぁ、そんなわけで」視線をそこらに泳がせて「君たちが軍の言いなりに

なつている理由はすぐに消えるんで、君もコロンもハニ、ハルもリイエルも、もう

〈十一番目〉と戦わなくていいんだ-」

「しっ」

議。

テイアットが、飛びついてきた。

組み技の一種か、と全身が反射的に緊張した◦しかし予想に反して、テイアッ

卜の両腕はフエオドールの背のほうへと回されて、抱き寄せられて、それはまる

で恋人の抱擁のようで、

「ちよ、え、あれ?」

「しっ」

身長にそれほどの差がないため、互いの耳元に唇が寄せられた形になる◦ティ

アットの鋭い息が、フエォドールの耳元をかすめた。

「見回り、いるから」

言われて、意識を周囲に巡らせる。確かに。広場の中に踏み込んでこようとし

ている気配がいくつかある。そのどれもが、どうやら帯剣し、火薬銃も下げてい

る。少なくとも、ここで恋人同士の逢瀬を楽しもうとしている様子ではない。

「護翼軍?」小声で尋ねた。

このファルシタ大広場において、抱き合う恋人というものは背景に等しい。怪

しまれないための即席の小細工としては妥当と言える。しかし、演技とはいえ、

好きでもない男に抱き着いてまで偽装するというのは、どうしたものか。

「警戒、強化されてるの。ピリピリしてるし、いろいろと容赦もない。第一師団

は第二とも第五とも方針か違う◦もうきみの手配書も回つてるし余白に『負

傷状況を問わない』つて書かれてる。いまきみが捕まつたら、ちょつと、楽しく

ないことになると思う」

「具体的には」

「取調室で、不幸な寧故が起きる」

……それは、確かに、ちょつと楽しくない。

「きみは、それでいいのか」

「よくないよ。よくないから、こんなことしてるんじやない。きみを捕まえにこ

の街まで来たのに、きみを逃がすよぅなことをしてる。_分でも何やつてるのか

よくわからないけど、でも、しょぅがないじやない——」

足音が。

近くで、止まつた。

まずい、と思つてフエオドールは両腕をテイアットの背に回した。そのまま、

強めに抱きしめる◦テイアットの全身が、恐怖か緊張かで、一度びくりと震え

る。

гごめん。怪しまれてるつぼかつたから」

「わかつてる」

二人ともが、互いの体を、力強く抱きしめる形になつている。

テイアットが、小さく震えているのが分かる◦言葉でこそ冗談めかしている

が、その小さな体の内側に、恐怖を抑え込んでいるのだと知れた。今もまだ護翼

軍に属し、その現状を目の当たりにしているこの娘は、いつたいこの数日に何を

おド

見てきたのだろう。何を感じ、何に怯えてきたのだろう。

「よかった」

ティアットの小声が、安堵を伝えてきた。

「元気そうで。毎日なんだか大変なことになってるから、衝我してるかもと

か……死んじやつてるかもとか、ちよつと、怖かつた」

「それは、捕まえるのは自分だ他のやつには渡さない、みたいな意味で?」

「茶化さないで。わたし、真面目な話、してるの」

毅られた。

「どうして......きみ、こんなこと、してるのよ一

怒られるついでに、説教めいた口ぶりで、テイアットが囁いた。

「そんなに強くないのに◦わたしたちを助ける義理だって、大してないのにさ。

どうして、こんな危ないこと、するのよ」

「僕は強いし、君たちを助ける理由ならいくらでもある◦というか、その手の話

はもう充分にやっただろ。平行線の再確認ってのは、好きじやないな」

「でも......、七変わりと力ある力もしれないし」

「ないね◦あるとしたら、それは君たちが先に心変わりをした場合だけだ。今す

ぐ全員で待遇改善を訴えてストライキ、そんくらいすれば僕だってやり方を変え

るさ」

「あの。わたしたち、兵器であって軍人じやないんだけど」

「兵器がストライキしちやいけないなんて、どこの労勵法にも書いてないさ」

これを詭弁とは言わせない。

そもそも兵器が自発的に行動をしている時点で異常であり、法の外にある状況

なのだ。法に守られていない者を法で縛るなど、理屈に合っていない。

抱擁を少し緩め、ティアットの頭を両手で挟む。すぐ目の前に持ってくる。

目と目を合わせて、

「君たちの生き方が気に入らないんだ◦君たちを大切にしない全てのことにむか

ついてるんだ。君たち自身だって、例外じゃない——」

足音。

近づいてくる。

護翼軍の兵士の一人だ◦たまたま足をこちらに向けているだけなのか、それと

も自分たちをピンポィントで#しんでいるのか、それは分からない。

恋人関係を偽装しなければ、と思つた。

すぐ目の前に、どこか緊張したようなテイアットの顔があつた。

瞳が揺れている。

唇が、近づいた。

吐息が絡み合ぅ。

至近距離、少女の目が閉じて、

自分の体がどぅ動いているのかが分からなくなって、

なぜか頭が、真っ白になって。

г……何してくれてんの」

拗ねたようなティアットの声で、我に返った。

頰を少しだけ赤く染めた少女が、不満そうに唇を尖らせている。

「え? あ、あれ?今、僕......」

ほんの数秒ほどの間、理性が体の制御を手放していた。体が勝手に、欲するも

のを欲するままに動いていた。

「ここがどこだか、わかってるの? ファルシタ大広場の大賢者像前◦想い合う

二人が愛を誓っちやったら、五年は幸せにさせられるっていうご利益があるんだ

からね?」

——そういえば、そういう話を聞いたこともある◦浪漫のある話だが今のとこ

ろ科学的根拠はなく、迷信の類でしかないとされているはずだけれども。

「もしかして、こ/っいうの、慣れてる?」

「なんで」

「だつてほら。怒らないから」

「別に……」わずかに目を逸らして「好きな人とじやなければノーカウントで

しょ、こんなの」

「それでいいの?」

「そうしとかないと、今すぐきみのこと、絞め殺したくなつちやうし」

じやあ、そういうことにしておこう。

そういえばこの子は——思い出す——先輩に憧れていたのだった◦とても強く

て、とても素敵で、とても熱い恋に生命を燃やした先輩。自分も、誰か素敵な男

性と、こういう時間を過ごしたいと願っていたはずだ。この場所でそいつと愛を

誓って、五年の幸せを嚙みしめたいと思っていたりもしたはずなのだ。

その夢を、たぶん今、自分は穢している。

「ラキシュは、元気? 一緒にいるんでしよ?」

話題を切り替えられた。ああ、とフиオドールは小さく頷き、

「……少し、雰囲気は変わったけどね」

「だったら、いいの◦大事にしてあげて。あの子、ちよっとだけ、寂しがり屋な

ところ、あるから。一人きりになつたら、きつと泣いちやぅから」

そこまで言ってから、思い出したよぅに、

「やらしいことは、ほどほどにね」

余計な一言を、付け足す。

「しないよ!?: なんでそこでいきなり理解ある親アピールみたいなこと言い出す

のさ!?:」

小声で叫ぶ。難しいけれど、言わずにはいられない。

「だって、親じやないけど、わたしはあの子のお姉ちやんだから」

ほんの数か月だけ、発生したのが早かった。それだけのことを、胸を張って

ティアットは誇る。そして誇った分だけの愛情の権利を主張する。

「そりやあ、悪いやつの毒牙にかけさせるってのは、やな話だけどさ◦本人が望

んでそぅなことまで邪魔はしない。妹の幸せを優先して、いろいろと我慢する

の」

それはまた、立派な心掛けでいらつしやることで。

見回りの気配が、ゆっくりと遠ざかっていく。

体を離す。風が吹き抜けていく。肌に残っていたぬくもりが、瞬く間に消えて

いく。

唇にだけ、一瞬の柔らかさの記憶が、ほんのわずかに残っている。

(-好きな人とじやなければ、ノーカウント)

そういうことなら、そういうことでいい。けれど、カウントしようがしまい

が、しばらく忘れられそうにないということに変わりはない。少なくとも、自分

にとつては。

......ティアットのほうの事情までは、分からないけれど。

ティアットが拳を振り上げて、

「絶対粉砕おと一さんパンチ……」

ぐにやっとした軌道の、謎の拳。卵も割れないようなか弱さで放たれたそれ

が、ぽすりと、フヱオドールの胸元に浅く刺さる。

かゆ

もちろん、痛くも_くもない。

「……つてわけにはいかないよね、うん」

「何、それ」

「何でもない。夢の中の話」

そう虚ろな答えを返して、ティアットは、どことも知れない彼方に視線を投げ

た。

「寒いし、もう帰る」

歩き出す。

「さつき言つたのは、本当だよ。君たちの後輩は、軍ではないところで調整を受

けられる。無理をして君たちが戦う理由は、もうないんだ」

追いすがるように、隣に並ぶ。

「そんなこと言われても、君の言葉だけじゃ信じにくいし、それに」

短ぃ1|1。

「……それに、何さ?」

「ん、何でもない。それより、今回だけは見逃すけど、次に追いつめた時はちゃ

んと捕まえてやるんだから。覚えときなさいよね」

びし、と人差し指を突きつけられる。

「……悪いけど、僕は、誰とも、再会の約束はしない。そう決めたんだ」

つか

その指を掘んで、あさつての方向へとずらしてやる。

「そつちの都合は知らない。おとなしく捕まる約束をしなさい」

ふふんと鼻を鳴らし、なぜか偉そうに言う。

「きみはもう少し、ひとの話を聞いて、ひとの事情を尊重するようにしよう

ね?」

そんな軽口を交わしながら、広場の出口へと向かう。

ふと、思い浮かぶ。

想い合う二人がここで永遠の愛を誓えば、五年の間は幸せになれるという話。

五年が経ったあとの永遠がどんなふうに過ぎていくのかについて多少の興味も

湧くが、そちらではなく。五年の間の幸せというやつのほう。あれは、具体的に

どのような時間を過ごすことを示しているのだろう、と。

(少なくとも——五年の間は、戦場に行って大爆発とかは、しなくてすむのか

もしその解釈が間違つていないなら、今の自分は、惜しいことをしたのかもし

れない。詭弁でもなんでもお互いを想い合って、演技でもなんでも永遠の愛を

誓ってしまえば、ティアットは幸せな五年を手に入れていたのではないか。

(……そんなわけ、ないか)

妄念を振り払ぅ。

「それじや、また^ —」

元気に片手を挙げて、ティアットがそぅ言った。

「ああ。それじや、また……」

妄念の欠片がまだ頭の片隅に残っていたせいで、反射的に、片手を挙げてい

た。唇からぼろりと、再会の約束が、こぼれ出ていた。

しまった、と慌てて手で口をふさぐ。間に合っていない。ティアットがにまり

と笑うと、そのまま背を向け、夜の街の中へと走り去って行った。

「ああ……畜生、やられた」

口をふさいだままで空を仰ぐ。彼女にはいつも、こうしてぺースを崩される。

自分が、こうありたいと思う自分のままではいられなくなる。

「だから僕は、君のことが嫌いなんだ」

t

その夜、フエォドールが隠れ家に戻った時。

部屋には、誰の姿もなかった。

まさかと思った◦姉がこの場所を突き止めて連れ去ったのか。護翼軍が押し

入ってきて拘束したのか◦ナィダラートが食べたのか。

そしてすぐに、真実はそのどれでもないのだと知った。

机の上に、一通の封筒が置かれている◦表には雅な文字で「フエォドール君

へ」と書かれ、裏にはご丁寧にも、未開封であることを示す封蠟まで捺されてい

る。

ぺーパーナィフで封を切り開ける。

取り出した中身に、目を通す。

『フヱオドールニンヱスマン様へ』

あの巨体と太い指でどぅやって書いたといぅのか、細々とした綺麗な文字で、

まずはそんな文から文面が始まっていた。

『先ほどの言葉に嘘はありません◦妖精倉庫の幼子たちの未来のため、私達は私

達にできることをするつもりです。ここまでの誠意と善意に感謝を◦そしてどう

か、貴方は貴方にふさわしい戦場での勝利を収められますよう』

何度も読み返した。けれど、それで文面も文意も、変わってくれたりはしな

かった。

窓を開けて通りを見ても、もちろん、そこにあの巨大な背中があったりはしな

V

「そっか……そっちの手を採ったのか。状況がここまで動いてからそうくるって

い、っのは、ちよっと意外だったな」

壁に背を預け、やれやれと、疲れたように眩く。

こうなることを全く予想していなかつたというわけではない。しかし、ここま

での道のりが順調であっただけに、できることなら最後までこのまま何事もなく

終わってほしいと願っていたのもまた事実だ。

しかし事実として、マゴメダリは自分の意思で動き始めた。誰かに手を引かれ

るまま、ただ罪の意識に震えながら身を小さくして……いや大きかったが……い

るのを止めた。そのきっかけが何であったのかまでは、フエォドールには知る由

はなかったが。

「しょうがないな……」

状況がどう変わったとしても、目的は変わらず、やるべきこともそのままだ。

何せつい先ほど、ティアット相手に言い切ってしまったばかりなのだ◦妖精の後

輩たちの無事はもう確保済みなのだと。あの言葉は、嘘にしたくない。するわけ

にはいかない。

隣室で眠るラキシュの無事を確かめて、少しだけ安心する◦あの二人がこの娘

を害するとは全く思わなかったが、連れて行かれる可能性はあった◦そうならな

かったということは、二人はこれから、それなりに危ない橋を渡るつもりだとい

うこと。そして、このフェオドール•ジェスマンに、この娘を今後も……あるい

はもうしばらくだけ......預けるつもりだということか。

「ここまでの誠意と善意に感謝を……か◦長く生きてるくせに、うちの姉とも付

き合いがあったくせに、まったく、世間知らずなおじさんだよ◦堕鬼種の誠意や

善意が、本物なわけがないのにさ」

そうだ。こうなることを全く予想していなかったというわけではない。裏切ら

れることを、自分の読みが届かないことを、策に失敗することを、計算に入れて

いないわけがない。だから、当然、次の手は用意してある。

順調にこの街から逃げることができなかった場合のための、次善の策。

悪いだけの状況でもないのだ。うまくいく自信はないが、それでもうまく事を

運ぶことができれば、きっと、見返りは大きい。脱出プランをあのまま成功させ

ていた場合よりも、ずっと。正直うまくいく自信はないし、内心では冷や汗が止

まらないけれど。

そう、逃げることができなかった以上、行くべき道は、ひとつだけ。

五百年前に、遥か眼下の地上から、滅びは始まったのだという。

人間が滅び、古霊が滅び、土竜が滅び、竜が滅びたのだという。その後も、

それらのいずれでもない種たちは、なんとか生き延びようともがき続けていた。

その中でもやはり多くの命が失われ、多くの種が消えていった。

浮遊大陸群への道が示された後も、状況はそれほど大きく変わったわけではな

い。滅びは依然としてすぐ傍にある。それが誰であれ、生き続けようと足搔く足

しゆんかん

つか

を止めれば、その瞬間に、死の遣いの骨ばった手が、肩の上に置かれることだ

誰もが、今、そういう世界に生きている。

誰もが、今、そういう世界で足搔いている‘

横目で見えた窓ガラスに、あの黒髪の青年が映っている。

角度が悪く、その表情まではょく分からない。

だからフエォドールは、口角を吊り上げ、一人で笑い、

「戦って、全てを奪い取る」

決意を込めて、自分の為すべきことを、言葉にした。

3•交じり合う少女二人

ぼんやりとした意識が、突然に覚醒する。

そして同時に、混乱に体を支配された。

ここは、どこだ。

私は、誰だ。

見回せば——そこは、見知らぬ場所、というか、もはや場所として表現するの

が正しいのか否かもわからなくなるようなところだった◦前後左右から上方に至

るまで、限りなく広がる無明の闇◦その闇の中に、ばらばらになって散らばる、

白い陶片のような何か◦その白が、角度を変えると、七色に彩を変える。光源ら

しい光源の見当たらないこの世界の中でも、なぜかそのことは、はっきりと見て

とれる。

そしてどうやら-ё分の立つその場所も、そういった陶片の中のひとつで

あつたらしい。

屋敷ひとつの敷地ほどの、純白の狭い地平。

Г夢……よね、これって」

確信ととともに、そうつぶやいた。あまりに現実離れした光景、だからこそ露

骨でわかりやすい明晰夢。

いろいろと気にかかるものは多かったが、とりあえず足元に転がる陶片のひと

つを拾い上げてみようと、手を伸ばす◦指先が触れる。

-ラキシュ、ほらほら、早く来なさいよ!

反射的に、指を引っ込める。

声が聞こえた。いや違う◦頭の中で、情景が再生された。森の中、若草色の髪

の幼い少女が、ぶんぶんと手を振っているのが見えたような気がする◦今のは、

何だったのか。その問いの答えを求めようにも、いま触れたばかりの陶片は、目

の前で砂のように崩れて、地面——というか足元の別の陶片——に吸い込まれて

いった。

別の陶片に、触れる。

——にひひ、はやいもの勝ちだぞ!

別の幼い少女が、あんぐりと口を開けて、パンにかじりついているのが見え

別の陶片に触れる。

——はは、そういう反応もまた実に君らしい。

また別の幼い少女が、何やら楽しそうに笑いながら駆けていた。その背を追い

かけながら、小さなげんこつが視界の隅を揺れている。

次の陶片に……触れる前に、手を引いた。

いくつかのことを、理解できた◦これらは全て、「ラキシュ」の記憶だ。ラキ

シュ•ニクス•セニォリスという名前の妖精兵が、幼いころから積み重ねてきた

時間だ。ティアット。コロン。パニバル。記憶の中に見えた少女たちは、ラキ

シュの大切な友人で、家族で、同僚で、仲間だ。

「ラキシュ•ニクス•セニオリス......か」

それは、自分の名のはずだ。名前も過去も持たずに雨の中でうずくまっていた

あの時、手を差し伸べてくれたフエオドールが教えてくれた。そして、その前後

に会った他の者たちも、やはり同じ名前で自分のことを——いや、この体のこと

を呼んだ。

自分はラキシュなのだ、魔力の熾しすぎで記憶を失ってしまった(ついでに

少々性格も変わっているらしい)だけで、かつてその名で呼ばれた妖精兵である

という事実に変わりはないのだ◦そう信じていたし、信じていたかった。その心

中を知ってか知らずか、フエオド^~ルもそのょうに扱ってくれていた◦だから、

安心していられた。

けれど、もしその思い込みが正しかったとして。その「ラキシュ」の記憶を目

の当たりにして、Шかしさを全く感じないのはどういうことだろう◦まるで知ら

ない誰かの日記を読んでいるような罪悪感だけがこみあげてくるのは、なぜなの

だろう。

「気のせい……よね」

辺りを、見回す。

おそらくここまでは、悪い偶然が重なったのだ。たまたま今の自分と繫がりに

くい、なかなかピンと来ない記憶が続いてしまっただけなのだ。探せばきちん

と、これは自分の過去なのだと実感できるものが見つかるはずなのだと。そう信

じて首を巡らせて、

「……あれ……は」

見つけた。

ひときわ大きな陶片がひとつ、少し離れたところに浮いている。そしておあつ

らえ向きに、そこそこの大きさのある幾つかの陶片が、まるで階段のように間の

道を繫いでくれている。多少のアクロバットの必要はあるかもしれないが、勢を

広げる必要もない。

あれは他の陶片とは、他の記憶とは違うものだと、見ただけでなぜか理解でき

た。あれに触れて蘇る過去こそ、自分という人格に直接つながるものだと、確信

できた。

近づこうと、歩を進めようとした——瞬間。袖を引かれた。

振り返る。ぼんやりとした、光り輝く人型が、そこに立つている。

目を細めてその姿を確かめる。背が低い。髪の色は——それ自体が発光してい

るようにも見えるのでわかりにくいが、たぶん明るい橙色。年のころは十五くら

いで、どこかで見たような、というか、ここ数日の毎朝に鏡の中に見ている顔が

そこにあつて、

「......ラキシュ」

自分でも驚くほど素直に、その名を呼べた。

光が弱まる。

どこか困ったような、あるいは何かに怯えているような表情の、少女の姿が露

わになる◦優しげで、儍げで、どこか守ってやりたくなるような雰囲気を漂わせ

ていて。けれどきっと、周りの誰もが逆にこの子に守られていたのではないかと

思える、不思議な包容力すら感じさせて。

「そう。あなたが、そうなのね」

確信する。この娘が、ラキシュ•ニクス•セニオリスの本来の姿だ。フエオ

ドールが大切にして、ティアットやコロンやパニバルが親愛をもって接していた

相手だ。そしてそれは、どうやら、ここにいる自分とは、別人だ◦客観的にその

姿を他人として見ることで、それがはっきりと分かった。

そのことを受け入れる、と同時、目の前の少女が悲しそうな顔をしているのを

見る。

г……なんであなたがそんな顔になるのょ、まつたく」

泣きたいのは、こちらのほうだ。この自分は、ラキシュの記憶を持たずそれに

繋がることもないこの「誰か」は、いま改めて、あらゆるものを失つている。名

前も。伝聞の過去も。……フエォドールに大切にされる理由すらも。

彼はこのことを知つているのだろう力◦それとも知らないのだろう力◦ど

ちらだとしても驚きはしないけれど、どちらであつても寂しいなとも思う。

「ょし!」

そうと分かれば◦次にやるべきことは、決まつている。やはりここは、間違い

なくこの自分に繋がつていると確信できるあの陶片の中身を確認してから目を覚

まそう。そして、これが自分だと堂々と胸を張つて彼の前に立とう。

前に進もうとしたところで、ぐいっと腰にしがみつかれた。

——だだだだめです、行っちゃだめなんですよう——

そんな声が、聞こえたような気がした。

「ああもう、こら^なんで、あなたが邪魔するの!」

頭を押さえて引きはがそうとするも、予想以上にラキシュの抵抗は力強い。

「いいじゃないの、私にはね、あなたと違って何もないの。ラキシュがあなたの

名前だっていうなら、私にはもう、自分の名前すらない」

この胸にある強い思いといえば、フエオドールへの信頼の気持ち。しかしそれ

すら、彼が自身の能力で、空白に近かったこの心に押し付けてきたものであると

いう。そうなれば、その信頼の気持ちを自覚するよりも前の感情……本当に元か

ら自分自身の中にあったものは、あの行き場のない僧悪の炎だけということに

なつてしまう。

何かひとつだけでもいい。自信をもって自分のものだと言える何かを取り戻し

たぃ。

Гごめんなさい!」

力任せに、ラキシュを振り切った。

そして、駆けた。いくつもの陶片を足場に、夜空を跳ねるょうにして、目当て

の陶片へと一気に近づいて、手を伸ばして、

——だめ——

背後からの制止の声、いや思念だろうか、にも耳をふさいで。そして、

『燃え盛る炎』

指先から、それが流れ込んできた。

「え……」

先ほどまでと何も変わらない◦指先で触れた陶片は形を失い、過去の記憶へと

溶け崩れる。違いといえば、そぅ、それは他人の日記などではなく、間違いなく

自分自身の中にあったものだと確信を持てることくらい。

『止まらない悲鳴』『星の見えない闇』『焼け崩れる骸』『後悔』『憎悪の視

線』『強い祈り』『代えのきかない目的』『無明の夜』『親友だった彼女』『く

るぶしに絡みつく無数の手のひら』『届かなかった祈り』『受け止められなかっ

た願い』『笑いながら燃え落ちる幼き子ら』『底の見えない孔へと墜ちる』

『単眼鬼が何かを叫んでいる』『耳元で反響する声、声、声』『最も古い

遺跡兵装の一振り』『還りたいといぅ強い想い』『限りなく広がる灰色の砂原』

『輝き綴る十四番目の獣』『心が焼ける』『焼ける』『焼ける』『焼ける』

堰を切ったょうに、流れ込んでくる——いや、自分の内側から、蘇ってくる。

ひとつひとつは断片的な、記憶と呼ぶのも躊躇われるほど曖昧な、ィメージの

欠片◦それが、膨大な数と量、加えてこちらの自我を洗い流そうとでもいう勢い

で、押し寄せてくる。

ラキシュの忠告を無視したことを、すぐに後悔した。彼女は分かっていたの

だ。あの陶片の中にあるものは、決して良いものではないのだと。

首を巡らせて、背後を見る。今にも泣き出しそうな顔のラキシュが、こちらに

向かって走ってこょうとしている。ごめんなさい、という言葉が頭に浮かぶが、

唇に届『響き続ける祈りの声』『絡みつく指先』『束ねられた願いを束ねたも

の』『嵐の雲に呑み込まれる』『墜ちて沈む』『沈む』『沈む』『沈-

fT

-目を、覚ます。

心臓が、今にも破れそぅな強さで脈打っている。

「……私、」

シャツの上から胸を押さえ、必死になって息を整える。

「私は......」

呼吸も鼓動も、時間とともに、少しずつ。落ち着いてくる。

けれど、心の乱れだけは、そぅ簡単には、引いてくれない。

「私は......一体......」

あのィメージの奔流は、いったい何だったのか。もしあれが、あれこそが自分

の過去の記憶そのものだったとしたなら、そもそもその「過去の自分」というや

つは何だったというのか。それは、果たして、善きものだったのか◦悪しきもの

だったのか。害あるものだったのか。あるいは。

二人きりの食事の席で、

「私は、いつまであなたの隣にいられるのかしら」

フエォドールに、そう尋ねた。

これまで一度も口にしたことがない、初めての疑問だった。

少年は首をひねり、複雑そうな顔で色々と考えてから、

「君が僕に愛想をつかしてくれるその時まで、かな」

「つまり、死が二人を別つまで、って?」

「あ一……えと、裏とか追及しないで言葉通りの意味でなら、そぅなる、ね?」

照れている。

その表情が思いのほかに可愛らしかったので、くすりと笑みが漏れる。

強く感じる。この人は、ラキシュ•ニクス•セニォリスをとても大切にしてい

る。だから自分は大切にされている。支えてくれているし、支えさせてくれてい

るし。

そのことを素直に喜び、受け入れていてもよかったのだろう。自分が本当に、

その名で呼ばれる少女そのものであったのならば。

夢の中で触れあった彼女は、確かに。この少年と似合いであったよぅな気がす

る。愛することにも愛されることにも向いた、そんな娘だった。いろいろな意味

で素直でないフエオドールのパートナーとして、いかにも向いていたと思えた。

それに引き換え、自分は。

あんなものを中身として抱えた、自分という......化け物は、どうなのか。

「私のことを、危険だとは思わないの?」

「知つてるよ。けれど今さらだ」

さらつと返された。

本心ではあるのだろう。暴発の危険のある妖精兵を遠ざけもせずにこんなとこ

ろまで連れてきた彼の言葉だ、疑う理由は何もない。もちろん彼が考える『危

険』の内訳はいま自分が恐怖しているものとは一致していないだろう、けれどそ

んなことは、彼の中にある愛情とその尊さを覆すようなものではない。……と思

う。そう思いたい。

「ラキシュさん? 今朝何力あつたの?」

「う/つん、なんでもない」

首を振つた。

「マゴメダリ博士たちも動き出した。長く秘密にされていたものが、これから

次々と暴かれ始めるはずなんだ。僕らも少し忙しくなる◦もし体調とかが悪いな

「だから、なんでもないの。あんまりしつこい男の子は、嫌われるわよ?」

「う」

まさか本気で嫌われることを心配したわけじやないだろうが、ともあれフエオ

ドールはそれ以上の追及を喉の奥へと飲み込んでくれた。

そうだ、今はこの少年の優しさに甘えよう。

彼が求めているのは、ラキシュなのだろう。しかしいま事実としてここにいる

のは自分だ。彼に見放されるその時まで、その隣に立ち、力となろう。

きっと自分は罪人だ、ここに在るだけで既に咎められるべき存在だ、だから今

さら罪のひとつやふたつ増えたところで構いやしない。そぅ、いまラキシュ•二

クス•セニォリスを名乗る少女は、心の中だけで決意を固めた。

「いちおぅこの方も自称〈獣〉だつたんすけど、〈深く潜む六番目の獣〉襲撃の

予知と同じよぅに、つてわけにはいかないんすかね?」

「申し訳ありません」

ゆったりとローブをなびかせて、女性が頭を下げる。

「いえ。申し訳ないのは、こんな遠くまで無駄足を踏ませてしまつたあたしらの

ほうつす。5番浮遊島の封鎖を抜けて出てくるなんて無茶をさせたつてのに

「……ただ、ひとつだけ」

女性はふと顔を下げ、銀瞳で棺の中身を再び見下ろして、

「ん、なんすか? 確かにこのひと、なかなかいい表情で寝てるっすけど、傲れ

るのだけはお勧めしないっすょ。いろんな意味でデンジヤラスロードっすから」

「いえ、そういうわけではなく。視えたというより、なんとなくそんな感じがし

たというレベルの話なのですが……」

言うべきか、伏せるべきか。そんな逡巡が、銀瞳種の口を一度閉ざす。

「聞かせてくださいつす」

「……この方は確かに死んで、立ち止まつています◦自身の物語を紡ぎ終え、幕

の向こう側へと去つた演者です。けれど、なんと言えばいいのか......その向こう

側に、また別の誰かがいるような気がするのです。今この瞬間を自分の物語の中

で生きている……あるいは次の演目を待ち焦がれている、そんな誰かが」

風が強くなつてきた。

見晴らしのいい丘の上。アイセアは、ぼんやりと夜空を見上げている。

その手の中には、一振りの遺跡兵装。適合し、アイセア自身の名にもいまだ含

まれているヴァルガリス……ではない◦もぅ何十年も適合者が出ず、倉庫の片隅

で埃をかぶつていた剣だ。今回この浮遊島に来るにあたつて、書類をちょこちょ

かいざん あつか

こ改竄し、なかば私物のような扱いでアイセアが持ち出してきたもの。

試しにと魔力を熾そうとして——すぐに、諦めた。無理をすればなんとか、な

かわ うつわ

どというレベルの話ではない。乾ききった砂を器にして水を飲もうとするような

ものだ。たとえ命を投け出そうと、一瞬きりの輝きすら、_分はもう生み出せな

「さすがにしんどい……っすねえ……」

39番浮遊島は、もう、間近に迫ってきている。決戦の時は近い。

どうせ勝ち目のない戦いだからと、犠牲が出るだけの交戦の前に38番浮遊島を

放棄するという選択肢は、もちろんある◦ラィムスキンー位武官を始めとする何

名かは、実際にそれを提唱し続けている。しかしそれは、今後のこの空に、38番

と39番の二つがくっついたサィズの<十一番目の獣>を解き放つということに等

しい。その危険を思えば、まだ抵抗が可能な今のうちに、できるだけのことは

やっておきたい……そう考える者の方が数が多く、つまり戦いは避けられない。

そして、その戦いの中で、いくつかの妖精の命が失われるだろうことも。

「技官も技官っすよ。生きてる間はあんだけあたしらを甘やかしてたってのに、

いざ死んだとたんに何もしてくれなくなった」

そんな、理不尽な愚痴も、こぼれようというもの。

「あ一せあ?」

低いところから、声が聞こえた。

「あ■~せあ、おさんほ?」

「ありゃま◦どうしたんすか、おちび」

膝よりちよつと高いところに、青空のような色がある。それが何かと訝る暇も

なく、青空はによきつと手足を生やすと、アィセアの膝の上へとよじ登つてき

た。

「一人でこんなとこまで来たんすか? バニコロの二人は?」

「や一あ!」

膝に乗っかった青空——リイエルが、いやいやと首を振る。

生まれたての妖精。いまだ何者でもなく、何者となるかもまだ分からない者。

「また、何かお小言でも言われたっすか? まったくもう」

春はもう目の前とはいえ、夜はまだ肌寒い。熱の塊のような幼子を、包み込む

ように両腕で抱きしめる。

リイエルはгん」と満足そうにうなずくと、アイセアの胸に頭を埋める。

「——ま、一人きりで空を見てるよりは、寂しくないかもしれないっすね」

そう自分に言い聞かせたとたん、腕の中の温かさがどうしようもなく愛おしく

なり、思わず腕に力を込めた。

そもそも一人になりたくて、ここに来たはずだったのだ。車椅子を降りて、草

の上に尻を下ろして、空だけを見上げて追憶に耽っていた。なのに、結局はその

一人きりに耐えきれず、こうしてリィエルの温もりに癒やされている。

「いやあ、我ながら情けない」

信用できない笑顔だ、と言われている。

いつも笑っているから本音が分からない、とも言われている。

そう言われるように、ふだんから心がけている。

楽しい時や嬉しい時に笑うのは当たり前◦寂しい時や辛い時にも笑うことが肝

要。深刻な顔をすることで好転する事態など限られている。笑うことでわずかな

りと前向きな気持ちを作り、そのことで好転する事態はわずかなりと存在する。

だったら笑うべきだ。ならばこそ笑うべきだ、と——かつて『アィセア』という

少女の日記には、そんな感じのことが書いてあった◦あの一文を読んで以来、ア

ィセアの生き方は、この仮面のような笑顔に覆われたものとなった。

だから、たまにこうして素直な気持ちを引きずり出されると、喻えようもなく

気恥ずかしくなってしまう。

「あ■せあ」

「ん、なんすかね?」

「あったかいよ」

「そりやあ......」

何かを思い出しそうになった。涙がこぼれそうになった。

「そいつはよかった……今日まで長生きしてきた甲斐があったってものっす

ね……」

湿り気を増す瞳をかばう様にして、空を見上げる。

胸の中の幼子が、寝息を立て始めたのが聞こえた。

「リイエル^~ こらとこいつた^~ 」

「ほらほら、怒らないから出ておいで一。おしおきしないから出ておいで一」

二つほど、新たに声が近づいてくる。

まったく客の多い夜だ、と呆れながらそちらを見やる。

「んぉ、アイセア?」

「ああ丁度良かった、先輩、このへんでリイエルを見なかっ——おや」

背の高い草を踏み分けて、コロンとパニバルの二人が、揃って顔を出す。

「にひひ、お捜し物は預かってるっすから、お静かにっすょ一」

むぅぅなんたることだ、とコロンが小声で唸った。

これではおしおきが出来ないな、とパニバルが小声でつぶやいた。

「この子、^-度は何やったんすか?」

リィエルの頭を撫でながら、尋ねる。

「飛空艇にのせようとしたら、にげた」

「飛空艇」眩いてから、思い出す「ああ——68番へ送るって話っすね」

「そう、そろそろ妖精倉庫に避難させないと、ここは危ないからな」

確かに、パニバルの言う通りなのだ。

このラィエル市護翼軍基地、およびその周辺は、目の前に迫った〈獣〉との決

戦に備え、とにかく慌ただしくなっている。鋼鉄の山が右に運ばれ、火薬の山が

左に運ばれ、恐怖に錯乱し叫びを上げる者あり、取り扱いを誤り試作兵器を爆発

させる者あり。もはや教育に悪いなどというレベルの話ですらない。精神にも悪

く、肉体にも悪い。これ以上幼子をここに置いておくべきではない。

この子はもう、妖精倉庫へ行くべきなのだ。ここからは、ナィグラートの……

あの、全ての妖精たちの母親のもとで、きちんと愛情(種類については問わない

こととする)に包まれて育つべきなのだ。

そして、ここにいる自分たちが、ずっとそばにいてやれるわけではない。明日

からの戦いの中で、次々に失われていくはずなのだから——

「この子は、何と?」

「行きたくない、おと一さんが帰ってくるまで待つ......のようなことを」

「......おと■さん、っすか?」

「フエオドールのことだ、たぶん」

それは、そうだろう◦他にいない。他にはいないけれど、その言葉を聞くと、

どうしても別の誰かを思い出せてしまう。

心の奥底、深すぎて自覚できないところで、頼ってしまったりもする。

「結局あたしらはどこまで行っても、種族ぐるみで甘えん坊ってことっすか

ね……」

首を振ってから、胸の中の寝顔を見下ろした。

不安もなく。不満もなく。唇の端っこからょだれなんぞもたらしつつ。

リィエルはただただ穏やかに、安らぎの時をむさぼっていた。

あとがき/あとがない状況で書いてます

その少年は、少女たちの幸せを願った。その少女たちは、少年の幸せを祈つ

た。願いと祈りは互いを否定し、傷つけあう。多くのものが失われたその場で、

それでも少年は願いを、少女たちは祈りを、決して諦めようとはしていなかつた

そんな感じで展開しています当シリーズ、『終末なにしてますか?もぅ一度

だけ、会えますか?』第四のエピソードの始まりをお届けします。

はい。始まりなんです。

毎回わりと強めに次の話への引きを用意しているシリーズではありますが、い

ちおう一冊の中でひとつのエピソードを閉じる形は保ってきていました。が、今

回はちよっとその辺り事情が違いまして、「#04」で始まった一番大きなエピソー

ドが、「#04」の中で完結していません。続きます。上下巻みたいなタィトルのつ

き方にはなってませんが、ィメージとしては近い感じです。それだけ多くの「何

か」に、フエォドール君や他の人々が直面し、翻弄されるということになりま

す0

そして、前巻「#03」のあとがきでも触れましたが、今回から本格的に、前シ

リーズ『終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいです

か?』とストーリーが合流します◦具体的には、あんな子やこんな子などが、

まったく後輩たちに遠慮しようともせずに出張ってきます。いや君たちそこは若

手に出番を譲るところでしよ世代交代するとこでしよと何度言っても聞きゃしま

せん。

特に誰とは言いませんがどこぞの喰人鬼がえらい勢いでぺージも喰ってるんで

すけどこれどうすりやいいんだ。そして、それに対抗するべく別の「お姉ちや

ん」も景気よくぺーシを食い荒らすんですけどほんとこいつらどうすりやいいん

だ。

というところで、恒例、メディアミックス情報!

せうかなめ先生によるコミック版『終末なにしてますか? 忙しいですか?

救ってもらっていいですか?』1巻が、KADOKAWAさんより発売中。いろ

いろな表情を見せながら走り回るちびっこどもと、いろいろな表情を見せながら

迫り来るナイグラートさんが個人的見どころ。距離近い近い近い。

「月刊コミックアライブ」誌で好評連載中です。

そして、4月より、アニメ『終末なにしてますか? 忙しいですか? 救って

もらっていいですか?』が各テレビ局およびネットメディアにて放送開始しま

す0

私自身、シリーズ構成と一部脚本を担当させていただきました。スタッフや

キャストの方々の意気も高く、原作の読み込みや思い入れに関して作者が白旗を

上げることもしばしば。

すでに私の仕事はほぼ終わっているので、わくわくしながら結果を待つ身で

す。妥協しない進行ゆえにいろいろ時間がかかってしまぅところもありました

が、素晴らしい作品になっているはずですよ。

放送局や時間帯など詳しい情報は、公式サイト(http://skasuka-anime.com)

やツイツタ1の公式アカウント(@sukasukalanime)、あるいは各種メディア誌

などをごらんください。ОР/EDテーマ、各キヤラのキヤストなどの情報も、

(いろいろ語り出したら止まらなそぅなのでここでは敢えて触れませんが)既に

公開されています。

展開されてゆく、原作とはまた別の解釈の「終末な(略)」世界。

それぞれに見える空の色が違っていても、きっとそれは同じ空であることに変

わりはないはす......てなものでして原作ともともょろしくです^—

さて、そろそろほどょく紙幅が埋まってきたので、その原作についてですが。

一人の「ヒロィン」を追いかけて始まった古都の乱戦は、少しずつその様相を

変えていく。盤上の駒は一通り並び終え、それぞれの勢力が各々の目的を明らか

にした。誰もが守りたいものを持ち、誰もが譲れないものを掲げた人々が、それ

ぞれに求めて止まない勝利に向かって走り出す——

次卷はそんな話になるょぅなあえかな気配をそこはかとなく感じなくもないで

すが、どんな感じになるかはぶっちゃけまだ私にもわかりません◦コミックスや

アニメなどで前シリーズの復習をしつつ、のんびりとお待ちいただければ幸い。

それではまた、きっと違ぅ色をしている、どこかの空の下でお会いできると

願って。

二〇一七年冬

http://tl.rulate.ru/book/8424/167496

Обсуждение главы:

Еще никто не написал комментариев...
Чтобы оставлять комментарии Войдите или Зарегистрируйтесь